2022227日 西那須野教会礼拝説教、説教者:眞木メレディス

説教題:「悲しむ者」聖書:マタイによる福音書54

 

おはようございます。私の名前はメレディスと申しますが、ほとんどの人はわたしをミミと呼んでいます。私は現在、アジア学院のコミュニティ・ライフ・コーディネーターとして働いています。今回、西那須野教会でのアジア学院サンデーでお話するのは2回目ですが、このように皆さんと分かち合う機会を与えてくださった神様に感謝します。初めてお話ししたのは、約1年前の20211月でした。その時は、ヤコブ書からお話しさせていただきましたが、その時のテーマは、「明日のことは分からないのです」というものでした。次の日に何が起こるか分からないので、明日のことを自慢したり、明日のことを心配したりするのではなく、今日できる良いことをするべきだという話をしました。一年が経って今、明日のことは分からない、正にその通りだと思いました。良いことも悪いことも、新しい年が何をもたらすか、私には予想がつきませんでした。正直なところ、1年後に日本の国境がまだ閉鎖されていて、感染拡大を防ぐために今もオンラインで礼拝を行っているとは思いませんでした。もうパンデミックは終わっているだろうと期待していました。しかし、これが今の現状です。だからこそ、今日の一節を選びました。マタイによる福音書のたったの一節ですが、もう一度読んでみましょう。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」

          ご存知のように、この聖句はイエス様の言葉からきています。これは、「至福の教え」と呼ばれる祝福の言葉の一つとして語られています。この「祝福」は、「山上の説教」と呼ばれる、イエス様の最も有名な教えの冒頭に記されています。イエス様にとって何が大切なのかを理解したい方は、マタイの5章から7章をご覧いただき、これらの教えをもう一度読んでみることをお勧めします。 驚くような発見があるかもしれません。「至福の教え」は、現代の私たちが考える「祝福」とは相容れないものです。マスメディアや多くの教会でさえ、全く逆のことを説いています。心の豊かな人は幸いである。幸福な者、力のある者は幸いである。現状に満足する者は幸いである。私たちの娯楽や社会は、慈悲や純粋さよりも復讐や欲望を称えています。私たちは、平和よりもむしろ戦争を起こそうとします。迫害される人は、よく言えば不幸でかわいそうな人、悪く言えば自業自得な人と見なされるのです。イエスの価値観が時に "逆さま "と言われるのも無理はないでしょう。今日は、「至福の教え」全部について話す時間がないので、1つだけ取り上げます。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」

          なぜこの節を選んだかというと、この一年は多くの人にとって悲しむことが多かったと思うからです。昨年の2月、私はアジア学院が発行している『Euodoo』という出版物の翻訳プロジェクトに携わっていました。アジア学院の卒業生で、ネパールに住んでいる方が書いた連載記事を翻訳していました。この方はアジア学院でネパール人の奥様と出会い、日本を離れて奥様と一緒に農村部に住み、土地や森、動物、養子、そしてお互いを愛しながら、シンプルな生活を送っていました。私はお二人にお会いしたことはありませんが、ご主人とは彼の著作の翻訳についてメールをやり取りし、彼らの喜びや葛藤、物語や思い出を英語の読者に理解してもらおうとするうちに、彼らと出会ったことがあるように感じました。そしたら、510日。奥様がCOVIDで亡くなられたことをアジア学院の職員の由紀子さんから知らされました。私は自分の耳を疑いました。えっ!?まさか!そんなことがあるのか?あの奥さんだなんて!?美しい命をこの世から失った悲しみと、愛する妻を失っただけでなく、国から追い出され、子どもや動物や土地からも引き離されてしまったご主人の悲しみとで胸がいっぱいになりました。後には、ミャンマー人の卒業生もCOVIDで亡くなったことを知りました。もしかしたら、皆さんは私が話している卒業生を個人的に知っているかもしれません。もしかしたら、昨年亡くなったお知り合いの方のことを思っていらっしゃるかもしれません。あなたの悲しみに、私の心は痛みます。もしかしたら、人を失ったのではなく、仕事や何かをする能力、旅行や勉強をする機会を失ったのかもしれません。海外からの学生(パティシパント)は、アジア学院に来る機会を失い、今後、いつ、どのような形で来られるかわからないです。これもまた、悲しいことです。

パンデミックは、世界中の多くの人々にとって、悲しみや苦しみ、喪失感の大きな原因になっていると思います。しかし、世の中で起きていることはパンデミックだけではありません。1年前の202121日、ミャンマーで軍事クーデターが起こりました。同国の多くの人々は、殴られ、殺され、家を破壊され、森の中、又は国境を越えてインドやタイに逃げざるを得なくなり、大きな苦しみを味わっています。アジア学院の卒業生も避難している人たちの中におり、多くの人がネットワークを組んで、援助や励ましを送ろうとしています。日本にいる私たちも、できる限り祈り、経済的な援助を送り続けています。また、カメルーンでは2016年からフランス語圏と英語圏の人々の衝突や暴力が続き、民間人が死亡し、多くの人が家を追われたという政治状況もアジア学院を通じて知りました。卒業生の中には、転居を余儀なくされ、仕事や農場をあきらめなければならない人もいます。また、危険を顧みず続けている人もいます。

パンデミックからであれ、不正からであれ、暴力や病気からであれ、何かを失った人、悲しんでいる人は世界中にいるのです。毎日、人々は泣いています。人々は悲しみに暮れています。ある人は神に助けを求め、ある人は地球上にこのような悲惨な事態を許している神を軽蔑しています。 私たちは呪われているようです。絶望的です。それなのに、イエス様が私たちは祝福されていると言います。嘆き悲しむ者は幸いである。それは理にかなっていません。私の心は叫びます、「いいえ!」と。この中に祝福はありません。悲しみと苦しみだけです。しかし、イエス様はそこで終わりません。文章は続きます。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」イエス様は、苦しみを楽しむマゾヒストでも、人に苦痛を与えることを楽しむサディストでもないと思います。祝福は悲しむこと自体にあるのではなく、むしろその後に来る慰めにあるのです。悲しむことは非常に現実的なことであり、否定するものではありません。しかし、イエス様にとって、悲しむことはストーリーの終わりではありません。イエス様自身にとっても、ユダヤ教・キリスト教の世界観全体にとっても、悲しみ、痛みを感じる時の後には、慰めと喜びの時が待っているのです。

聖書の物語全体を通して、私たちはこのテーマを見出すことができます。例えば、すべてを失ったが、後に健康と家族と財産を回復したヨブ、奴隷として売られ、牢獄で苦しんだが、後に王子となったヨセフ、夫と息子を失ったが、ルツによって孫を与えられたナオミなど、個人の物語に見ることができます。 また、イスラエルという国の物語にも見ることができます。彼らはエジプトで奴隷にされ、虐待を受けたが、後にエジプトから約束の地に連れ出されました。ユダヤの神殿は破壊され、人々はバビロンに追放されましたが、後に彼らは自分の土地に戻り、神殿を再建することが許されました。詩篇や預言書にも、悲しみの言葉と慰めの言葉がたくさんあります。 イエス様の言葉「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」はそのまま彼自身にも当てはめることができます。 彼は、裏切られ、拷問され、殺されることを知っていて嘆き悲しみましたが、その後に死からよみがえり、友人や愛する人たちと再会したのです。

          イエスは自分に何が起こるかを知っていたので、ヨハネによる福音書16章で、弟子たちにこう言われました。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(ヨハネ16:20) 彼らに出産の例を挙げました。「女は子どもを産むとき、苦しむのだ。自分の時が来たのだからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」(ヨハネ1622)その後、パウロはローマ人への手紙の中で、この同じ考えを取り上げました。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、「霊」の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と書きました。(ローマ8:22-23)パウロにとって、すべての被造物は苦しみ、来るべきものを待っているのです。新しいものが生まれようとしているのです。それは新しい赤ちゃんではなく、新しい天と地なのです。パウロは、「現在の苦しみは、将来のわたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と言いました。(ローマ人への手紙8:18)

それを考えると、イエスの言葉が少し意味を持ち始めます。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 皆さんは、陣痛中の女性を見たこと、陣痛の痛みを感じたことがありますか?2年前、私は妹の子どもの出産に立ち会う機会がありました。姉はとても痛がっていました。その時、もし私が「あなたはとても祝福されていますね」と言ったら 彼女はおそらく私を罵るか、「黙れ」と叫んだでしょう。しかし、赤ちゃんが無事に生まれ、彼女が落ち着いて美しい娘を抱く機会があったとき、私たちは彼女が祝福されていることに同意することができました。今、彼女は2歳児の子育てに奮闘しています。大変なことです。母親であることを幸せと思えないときもあるでしょう。でも、娘さんの存在が慰めと喜びを与え、自分が祝福されていることを実感する瞬間もたくさんあると思います。 もちろん、この比喩は限定的なものです。陣痛を乗り越え、死産した母親はどうでしょうか。生きて生まれたのに、数日後に死んでしまう赤ちゃんはどうでしょう?そのようなお母さんの慰めはどこにあるのでしょうか。

痛みや喪失感に直面したことのある人なら誰でも、状況がそれぞれ違うことを知っています。出産の場合、痛みは1日か2日続きますが、すぐに結果が出ます― 新しい人間がこの世に誕生しますから。病気や戦争の場合、待つ期間はもっと長く、結果も不確かです。病気の治療には、良い結果が出るまで、あるいは最終的に癒されるまでに、数ヶ月から数年かかるかもしれません。聖書には、イエス様が12年間も出血し続けていた女性を癒したという話があります。また、38年間病んでいた男性が癒された話もあります。暴力や抑圧について考えるとき、自由や喜びを経験する前に、長い間、時には何百年も苦しんできた人々や国があるのです。 もし彼らが慰めを受けるまで生き残らなかったとしたら、祝福されたと言えるのでしょうか。また、愛する人の死を嘆き悲しむ人たちはどうでしょうか。死は決定的なものです。数日や数年嘆いて、その人が戻ってくるわけではありません。

あなたは今、何か悲しんでいることがありますか?パンデミックの影響かもしれません。健康が失われたことかもしれません。愛する人を失ったことかもしれません。もしかしたら、世界中で勃発している暴力かもしれません。不公平かもしれません。環境破壊かもしれません。もしかしたら、あなたは長い間苦しんでいるかもしれません。その痛みはとても強く、慰められることはないと思っているのかもしれません。自分自身に嘆き悲しむ時間を与えてください。そして今、イエスの言葉を聞いてください。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 私はこの言葉を約束として捧げたいと思います。「運が良ければいつか慰められるかもしれない」ではなく、「慰められる」のです。あなたは慰められるでしょう。すぐにではないかもしれません。あなたが期待するような形ではないかもしれません。しかし、あなたは慰められるのです。

昨年、ミャンマーで卒業生から直接話を聞く機会がありました。周囲に恐ろしいことが起こっているにもかかわらず、彼らは希望を捨てずにいました。彼らの神への信仰は強いものでした。同じように、カメルーンの卒業生からも、「私は仕事をあきらめない」と力強く宣言しているのを聞くことができました。「生きている限り、希望はある 」と。彼らは私たちよりもずっと困難な状況に置かれているにもかかわらず、神様から受けた慰めを通して、日本にいる私たちの慰めと励みになりました!

これはまさに、パウロがコリントの信徒への手紙の中で述べたプロセスであります。「 わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちに及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」(2コリント人への手紙1:3-7) 神様が私たちを慰めてくださることで、今度は私たちが他の人を慰めることができるのです。

2019年、弟の一人が突然亡くなりました。葬儀のために一人でアメリカに帰らなければならず、帰りの飛行機の中でずっと泣いていました。弟だけでなく、両親、他の兄弟姉妹、弟の恋人、友人、私たち親族のために悲しみに暮れました。多くの人が愛する人を失ったのです。みんな、さまざまな形で痛みを抱えていました。その痛みは、しばしば私たちの生活の他のところに流れていき、私たちが想像もしなかったような形で、さらなる痛みを引き起こすこともありました。あれから3年近く経ちますが、私たちはまだ痛みを抱えています。しかし、私たちは確かに慰めも受けました。私の最大の慰めは、アジア学院で知り合った友人から受けたものです。彼はその知らせを聞いたとき、私を抱きしめ、私の痛みに寄り添い、泣かせてくれました。私が弟を失ったのと同じように、彼も大切な友人を失ったのだと知っていたので、私は彼を頼りにしました。私たちは、悲しみや思い出を分かち合うことで、互いに慰め合うことができました。彼は、私が非常に困難な時期を乗り越えられるように、神様が与えてくださった贈り物だと思います。実際、彼は今も私の側にいて、友人としてだけでなく、夫として祝福を与え続けてくれています。

今日、私が最初に言った言葉を覚えていますか?私はメレディスだと自己紹介しましたが、名字は言いませんでした。一年前、西那須野教会でお話をした時はメレディス・ホフマンでしたが、今はメレディス・マキです。次の日がどうなるかわからないと言いました。私は弟の死、パンデミックによって失われた生命と機会、卒業生が直面している無意味な暴力と苦痛を思い悲しんでいますが、同時に慰めも与えられています。私の夫はアジア学院の卒業生です。皮肉なことに、私たちが昨年結婚した理由の一つは、彼がコロナウイルスのために海外に行くのを阻まれたからです。又、彼が苦しんだからこそ、私の悲しみを理解してくれたのだと思います。 悲しみましたが、私は豊かな祝福を受けました。それでも、私が夫を得た中でなぜ夫や妻を亡くさなければならない方が居るのか、理解できません。大切な奥様を亡くされたネパールに住んでいた日本人の卒業生のことを思い出します。神様が彼を慰めてくださいますようにと祈ります。そこで、アジア学院の卒業生と悲しんでいるすべての人々を覚えて祈り、今日の私のメッセージを終わりたいと思います。彼らが神と出会い、神の慰めを知ることができますように。また、彼らが慰められることによって、他の人々を慰めるために用いられるようにと祈ります。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」