2022313日西那須野教会礼拝説教文 説教者:潘 炯旭牧師

説教題:「神の栄光にあずかる希望」、 聖書:ローマの信徒への手紙 512

 

主の平和が有りますようにと願います。

栃木県の新型コロナウイルスまん延防止等重点措置が21日まで再延長に成りましたので教会堂での礼拝を続けて中止にしましたが、レントの恵みの時に共に集まる事が出来なくなり残念です。ですが苦しみの時にこそ恵みの時が近づく事を信じて御言葉と祈りと共に歩みましょう。

今日の説教題は2節の「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」との御言葉から「神の栄光にあずかる希望」としました。

1. 神の栄光とは何ですか。私たちはこの神の栄光にあずかっているのでしょうか。

神の栄光にあずかるとは、神と皆さんとの距離が離れているのでは無く、神の栄光と共に居る事なのです。

神の栄光とは出エジプト記403435には『雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。 35モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。』と書かれています。神の栄光とは神の臨在、神の存在が目に見える形で現われる事です。これを預言者イザヤはイザヤ書6章で神に出会う事を神の栄光に出会う事として書いています。

ですから神の栄光にあずかるとは神の恵みに預かる事であり、神の力を得る事になるのです。神の救いを味わう事です。

出エジプト記16章の天から雨のようにマナを降らせ民に与えたのは神の栄光を見せるためでした。

サムエル記上421には「神の箱が奪われ、しゅうとも夫も死に、栄光はイスラエルを去ったと考えて、彼女は子供をイカボド(栄光は失われた)と名付けた。」と書かれていました。神の箱が奪われたのは神の栄光を失ったからだと思い、そして子供の名前をイカボドと名つけたのです。

神の栄光にあずかったとは神様と共に居る経験をした事です。

ヨハネによる福音書1140には「イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。」と書かれています。神の栄光を見るとは、死んでいたラザロがよみがえった事に見ることが出来るでしょう。

旧約聖書を読むと神の栄光を見ると人々は恐ろしくなりました。出エジプト記1912「間違って人々がそこへ足を踏み入れたりしないよう、周囲に境界線を引きなさい。そしてこう言うのだ。『気をつけよ。山へ登ってはならない。境界線に触れてもいけない。万一そんなことをしたらいのちはないものと思いなさい。』と罪人である限り神に近づくのは命を失うほど怖いことでしたが、今は主イエスの血潮によって神の栄光を味わう事が出来、主なる神を父と呼ぶ資格が与えられたのです。

誰も罪人である限り神様は恐ろしい存在です。罪に対して裁きが有るからです。でもイエスをキリストとして信じ信仰を持って生きているクリスチャンには、神様が裁きを行う恐ろしい存在ではないのです。私たちの罪が赦され、神の大きな愛を受けて神を父と呼ぶように、神の栄光にあずかる事を希望しています。ただの希望ではなくて100%確かな約束です。皆さんはこれらの素晴らしい神の栄光にあずかっていますか。

2.神の栄光にあずかれるのはイエスのお陰です。(2節)

2節をもう一度読みます。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」

神の栄光にあずかる希望を持つ事が出来たのはイエスキリストのお陰です。

なぜなら私たちが犯した全ての罪をイエスご自身が十字架で受け入れてくださいました。私たちの罪のために私たちの代わりにイエスキリストが死なれたことで、贖いの赦しを受ける事が出来たのです。神を自分の主として受け入れ信じるなら、神の栄光にあずかる事を希望として持ち、自分の誇りとして生きる事が出来るのです。

レントは私たちが受ける恵みの全てはイエスのお陰である事を確かめて、主イエスの苦難の道を覚え感謝することです。そして私たちも主なるイエスキリストに従って私たちに与えられた使命と重荷、即ち十字架を背負って生きる事を意味します。マタイによる福音書1624「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」」とあります。

ある方は告白しています。私たちの苦しみと痛みはイエスキリストが受けた十字架の苦しみや痛みとは比較できないものだと。私たちの苦しみは自分のためだけなのに、イエスの苦しみや痛みは私たちのためであると。讃美歌21の4番の讃美歌は「世にあるかぎりのことばをもて恵みの勝利をたたえて歌わん」と賛美しています。世にある全ての人々の口からでる言葉を合わせて贖いの主を賛美しますとの賛美です。

イエスのお陰で思いがけない素晴らしい愛と、恵みに満たされて生きているのです。

では神の栄光をあずかるとは何でしょう。

3.神の栄光にあずかるとは神様との間に平和を得る事です。(1節)

1節を読みます。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、」

今ウクライナに戦争が起きていますので多くの人々は「ウクライナに平和を」と祈っています。

戦争は力ある国が弱い国を攻撃します。戦争になると弱い側が困ります。命を失います。自分が持っている全てのものが奪われます。ですから多くの国々は力を強くするため軍備にお金を多く使っていて、そのせいで互いに困って生きています。

戦争と戦いの元は人間の欲望です。自分のみ高ぶる事です。自分が上になるために相手を殺すほど人間の心は荒れています。このような欲望や罪を悔い改めていないと正しい信仰ではなくなるのです。神様の御言葉を自分の欲望のために利用するなら偶像崇拝と同じです。

神様と私の間に平和を得るとは、罪を悔い改めて神に従い、神様を主として認め信じる事で、神様の裁きではなく神の愛を受け神様の命の光に導かれて生きることです。エフェソの信徒への手紙21418にこのように教えています。読みます。「14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」

最後ですが皆さんに問います。「皆さんは何を誇りとしていますか。」

ある方は自分の健康、ある方は自分の経歴、ある方は大きな賞をもらった事等です。パウロが教えているように神の栄光にあずかる希望を誇りにして生きるために、どれほど信じ、喜びと恵みとして守っているでしょうか。レントの時イエスが授けた十字架の神の愛によって神の栄光を預かる事が出来るのだという希望を持つ事より他に誇る事が有るでしょうか。

今この世にある物は時間が立つと消え去ります。世の全ての物は虚しくなります。しかし愚かな罪人だった自分を裁きから逃れさせ、裁きではなく愛と恵みの神の栄光にあずかる資格を下さった事は永遠に変わらない真理です。神様の約束です。これらの素晴らしい贖いや恵みが有るから神の栄光にあずかる希望を持って誇りとして信じて行くのです。今週もこの御言葉に強められて生きますようにと願います。