お言葉どおりにします。
ヨシュア記 2:15-21
ラハブは二人を窓から綱でつり降ろした。彼女の家は、城壁の壁面を利用したものであり、
城壁の内側に住んでいたからである。 彼女は二人に言った。
「追っ手に会わないように、山の方へ行きなさい。
三日間はそこに身を隠し、追っ手が引き揚げてから帰りなさい。」
二人は彼女に言った。「あなたが我々に誓わせた誓いから、我々が解かれることもある。
我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓に
この真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、
兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。 もし、だれかが戸口から外へ出たなら、
血を流すことになっても、その責任はその人にある
。我々には責任がない。だが、あなたと一緒に家の中にいる者に手をかけるなら、
その血の責任は我々にある。 もし、あなたが我々のことをだれかに知らせるなら、
我々は、あなたの誓わせた誓いから解かれる。」ラハブは、
「お言葉どおりにいたしましょう」と答えて、二人を送り出し、
彼らが立ち去ると、真っ赤なひもを窓に結び付けた。
ハレルヤ!主の愛と美しみが皆様の上に豊かに降り注ぎますようにと願い祈ります。
主の平和が有りますようにと挨拶しましょう。
今日の聖書の個所もなかなか理解しにくい内容の一つです。
イスラエルの民がエジプトから出てヨルダン川を渡る前に起こった出来事です。
普通ならば自分の国と部族を優先すると思います。
スポーツを見る時にも自分が属しているとか、自分に関係が有るチームを応援します。
でも今日の聖書に出てくるラハブはそうでは無い人のように見えます。
良く知っているわけでもなく初めて会ったイスラエルの敵の者であり、
スパイのような人を助けて契約を結ぶような姿は普通に考えるとあり得ない出来事です。
でも今日の御言葉から学ぶ事は何でしょうか。
ラハブは1節には遊女であると書かれていますが、
マタイによる福音書1章のイエスの系図にはラハブの名前が載っています。
普通ならばエリコの人々の中に、名前も出せないほどの弱い者、
小さい者、低くされる者でしたが、
ヨシュア記の第2章の出来事で私たちにも知らされる人に成りました。
何が、起きたのでしょう。
1. ラハブは真の神を認めたのです。
ラハブとエリコの人々はイスラエルの神が葦の海の水を干上がらせたことや、
ヨルダン川のアモリの二人の王に対する事を聞いていました。
そして11節ではあなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であると告白しました。
ラハブと彼女の家族は人々から聞いたうわさを聞きとって信じたのです。
イスラエルの神こそが本当の神である事を信じたのです。
今私たちは聖書から神様の行いを読んでいます。そして私たちの先輩たちの信仰を見ています。
そして真の神として信じています。ペテロの手紙Ⅱの1:4にあるように、
尊く素晴らしい約束を与えて下さる神を信じて、
私たちも与えられた御言葉に従って歩みましょう。
マタイによる福音書1章のイエスの系図には二人の異邦人の名前が出ます。
5節のラハブとルツです。
二人とも自分が信じていた神を捨ててイスラエルの神を選んだ方々です。
ルツ記1:6で『ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、
そんなひどいことを強いないでください。
わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。
あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。」
私たちも創造の神、全能の神を神として選び従って行きます。
素晴らしい約束が与えられているからです。
2. ラハブは印を求めました。
ラハブは未来の事を気にして、神様の裁きの日が来ると思いました。
エリコはイスラエルとの戦いで負けると思ったのです。
そこから救いの道を願いました。その裁きの時に私たちに確かな証拠を下さいと。
確かな事は、我々は皆死に向って歩んでいます。そして神の裁きの座に出ます。
でも信仰によって確かな証拠を聖書は教えています。
ラハブについて18-19節の御言葉をもう一度読んで見ましょう。
『我々がここに攻め込むとき、
我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。
またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。
もし、だれかが戸口から外へ出たなら、血を流すことになっても、
その責任はその人にある。我々には責任がない。
だが、あなたと一緒に家の中にいる者に手をかけるなら、その血の責任は我々にある。 』
ラハブには真っ赤なひもが証拠であり印でしたが、今の私たちには十字架の血が印です。
出エジプトの時には羊の血の恵みで神様の救いが与えられました。
ラハブは真っ赤なひもが結び付けられた家が救いの場所でした。
今の私たちにとっては、私たちの救いのために十字架の上で血を流して死んだ
イエス・キリストの愛が救いであり、それによってイエスを信じ、
十字架の恵みである救いの道に留まっている事が私たちに与えられた証拠です。
3. ラハブは答えました「お言葉どおりにいたします」と。
ヨシュア記6章でエリコがイスラエルに負けて死にますが、
ラハブは救われてイエスの系図に名前が載ることになりました。
それは言葉どおりに守ったからなのです。
ルカによる福音書1:38に『マリアは言った。
「わたしは主のはしためです。
お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。』
神の教えに従って御言葉どおりに従う事は大変な事です。
ラハブの決意も本当に大変な事です。
マリアの答えも大変な時に叫んだ言葉です。
ラハブは二人の斥候を信じて従いました。
もし私ならば彼らの言う事を信じないで、今、
目に見える利益を先に取ったのでは無いかと思います。
でも主の恵みによって福音に導かれて信じるように導かれたことを何よりも大きな恵みとして信じています。
2019年の宣教方針である信仰の回帰、
聖書のみ言葉に基づいて聖書の教えどおりに従いましょうという思いで歩んできました。
御言葉どおりに従って来ましたか。
そして御言葉どおりに従おうとして2020年も始まりましたか。
人間ですから自分の思い、自分が持った経験や知識が有って言葉どおりに従うのが難しくなりますが。
何が有っても言葉どおりに従おうとする志を身に着けて生きましょう。
御言葉どおりに従う事が恵みの道であり。祝福の道です。
神に導かれる道こそ命に至る道であり、平安の道です。
何が有っても御言葉どおりに生きようと思いましょう。
聖書の教えに従うように祈りと共に生きましょう。