神の前にひとり立つ個

聖書:マタイによる福音書 2234-40

 

 

アジア学院は2023年に50周年を迎えます。そこでその50周年に向かって、
あらたなビジョンを掲げようと、ビジョンニング(ビジョン作り)を昨年から少しずつ行っています。

また4年ほど前から、「コーチング」というものも行っています。
コーチングというのは、スポーツのコーチとは少し違っていて、
「問題解決や課題達成、目標の実現など、さまざまな課題を解決し、
夢や目標を具体的な「形」にしていくため」のサポートのことを言います。
様々な組織でコーチンを行っているプロのコーチに年に12回来ていただき、
アジア学院の現状をみなで分析、確認し、共に問題解決や課題達成のために話合いをしたり、
考えや気持ちの共有を行っています。

 

さて、50周年のためのビジョンニングをする中で、
「コミュニティ」という言葉がキーワードで出てきました。つまりアジア学院は、
アジア学院が関わる様々なコミュニティーとこれからどのような関係を築いていくべきか、
特にどんなコミュニティと関わりを強めていくべきか、ということです。
例えば西那須野教会もアジア学院が関わるコミュニティのひとつです。
このいろいろなコミュニティとの関係を考えている作業をコーチングの方法で進めて頂こうと思い、
34日にセッションを持ちました。

 

そしてコーチングセッションの当日、初めにこのような紙が張り出されました。

外側から

「世界のアジア学院支援者」

「世界のアジア学院卒業生」

「国内のアジア学院支援者」

「地元、那須、栃木のコミュニティ」

「アジア学院」

「自分自身」

 

 

 

 

 

一番中心の「自分自身」を見て私はちょっと驚きました。
それはコミュニティーに焦点を当てていくと思っていてその日に臨んだのに、
なんとその中心には自分がいたからでした。よく考えればその通りなのに、
こんな当たり前のことに気づかず、
自分自身のことを忘れて外にばかり目がいっていたのです。
実際当日のセッションはこの自分自身を見つめることに午前中の2時間を費やし、
外側のコミュニティーとの関わりについて午後の2時間を使いました。

 

午前中に自分自身を見つめる作業はGuided Visualizationというとても面白い方法で行われました。
Guidedつまり、コーチのガイド(指示)に導かれて、自分の内側をVisualizeする、
つまり視覚化するということで、私たちはみな目を閉じて、コーチのいざないによって、
自分の中の自分の国、My landを訪ね、そのMy landをじっくり観察する旅にでかけました。
My land
、私の中の私の国、そこは自分がとても大切にしているもの、
意識下にある存在などが現れ、楽しい冒険のようでもありました。
コーチが私たちをいざなった質問はこんなようなものでした。

まずリラックスして座って目を閉じて、自分だけのMy landの境界線をぐるっとパトロールします。
境界そのものはあるのか、他人や何か別のものは入って来れるのか、
入れるとしたら入りやすいのか、ガードが固く入りずらいのか、などです。

そしてMy landに入ったら、そこの第一印象を感じます。気候や、風や、音や、
雰囲気などです。さらにそこにいる人、生き物、そこで何が行われているのか、
こうした質問が次々にされて、自分の国、心の中のMy landの様子がだんだんと明らかになっていきます。

 

この作業が終わると、私たちはそれぞれのMy landがどんなところであったか、
小グループで紹介し合いました。驚くことに、My landは人によってとても違っていました。
境界なんてなくて、誰でも好きなように出入りしているLandもあれば、
軍人のような人や犬でがっちり護られた境界を持つ人もいました。
Landの中にさらに、絶対に他人が立ち入れない塊のようなものがあるという人もいたし、
そのような塊の周りには嵐が吹きすさび、誰かが近寄ろうものなら、
吹き飛ばされるなんていうことを説明した人もいました。
アジア学院の職員のMy landの多くは、自然の美しい、穏やかな平和な場所で、
自分の大切にしている人やものがいたようでした。でも先ほどの塊のように、
自分では思いもしないような風景に出会った人もいました。
私の場合はさして珍しい人や驚くようなものはありませんでしたが、
静かで平和でのどかで、高校生の時に一度だけ母と訪れた尾瀬ヶ原の朝のような風景が広がっていました。
そこは自分にとってとても神聖な場所のようで、心の平安を感じるところでした。
でもそこで私が見た人たちの中には知らない顔、見るとちょっと緊張を感じるよう人もいました。

 

この作業の最中にコーチが言っていて、強く私の心に残ったのは、
それぞれのMy Landは私たちにとっていつでも安心して帰れる場所であり、
私たちの家のような場所であるということでした。
そして、そこはどんなところであろうが大切にすべき場所で、
良いとか悪いとかの基準はなく、
何も否定しなくていいと言っていました。それを聞いて私はとてもうれしく思いましたし、
心が温かくなり救われたような気持ちすらしました。
そのコーチはまた、セッションが終わった後で、私がこのような作業は初めてで、
私は私の心の中のあのような場所を初めて見たし、とても新鮮だったと話すと、
日本の教育はいわばこういったMy Landを否定し、画一的な人間を作ることを強調するから、
新鮮だと思うのは当然かもしれないと言っていました。

 

 前置きが長くなりましたが、皆さんは今の話を聞いてどう思われましたか。
自分の心の中の深いところにある自分の大切な世界を訪ねたこと、
イメージしたことがありますか?とてもはっきりイメージできるという人もいれば、
私と同じようにそのような経験はない、という人もいると思います。
先ほどのコーチが言うように、社会が期待する人間になることを強調する教育を受けたために、
自分自身をこのようにしっかりと見る機会はなかったでしょうか。
周囲に迷惑をかけないように、また周囲からどう見られるかということに基準が置かれ、
自分はどこかに置いてきてしまっているかもしれない、という方もいるかもしれません。
あるいは、家族、社会で与えられた任務を果たすことがいつも最優先で、
それこそが自分自身だと思い込んでいないでしょうか。My landをひとり静かに訪ねたことはありますか?

 

今日の聖書の箇所は、私たちにとって一番大切な教えは何かというパリサイ派の人の質問に対し、
イエス様が答えた有名すぎるほどの箇所です。第一は「心をつくし、精神をつくし、
思いを尽くして、主なるあなたの神を愛する」、そして二つ目が、「自分を愛するように、
あなたの隣人を愛せよ」と言っています。私は先ほどのコミュニティーの図を見たときに、
そしてMy landを訪ねる作業をした時に、この聖書の言葉を考えました。
つまりこの最も大切な戒めを心に刻み、ではさて何かをしようと考える時に、つまり、
その「心をつくし、精神をつくし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛する」主体である自分
、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という時、
その自分自身を私たちはどれほど知っているのか、ということです。
My landに立たずして、自分の奥底の自分を見ることなしに、いくらあれをしよう、
これをしようとしても、しょせん上っ面なことにすぎないのではないか。
自分自身にまず向い合い、自分を明らかにしていくことをせずに、
いったい私たちに何ができるのか、ということを思ったのです。

 

私は昨年100周年を迎えたキリスト教共助会という会に属しているのですが、
その会の先達で約80年前に京都の北白川教会で牧会をしていた
奥田成孝(しげたか)という牧師のことを知りました。そして、先ほどの問い、
つまりイエスが私たちに教えた最も大切な戒めを行うべき自分とどこまで向き合い、
どのくらい知っているのか、という問いを持った時に、
この奥田成孝(しげたか)牧師の次のことばを思い出しました。
彼は「信仰の根幹は、神の前にひとり立つ個を生きる、とういことに尽きる。」と言いました。
私たちは神の前にひとり立つ個、自分という人格をどれほど深く知っているでしょうか。

 

奥田氏はさらにこう言います。「この1点を欠くならば、いかに活動的であっても、
それは、信仰がなくても出来る運動や行動になり終わる。
イエスの第一第二の戒めはいずれ劣らず大切であるが、
やはり第一の戒めは第一の問題として生きられねばならぬと思う。」

 

神の前にひとり立つ個を生きることがなければ、第二の戒めも不明確になります。
自分の隣人とは誰なのか。すぐそばにいる人、
自分の周りで困っている人は手を差し伸べるべき隣人です。
でも神の前にひとり立つ個を生きる中での、自分の本当の隣人はその人なのか。
このことを私たちはどれほど追求したことがあるでしょうか。
神の前にひとり立つ個を追求した先に見える隣人が、神様が私たちひとりひとりに与えた、
神の使命として愛すべき隣人なのかもしれません。
私たちの周りで、どんなことがあっても寄り添うべき、
支えるべき愛すべき隣人を持っている尊敬すべき人がいます。
それは、神の前にひとり立つ個を生きる、
それによって使命としての愛すべき隣人を見つけた結果かもしれません。
自分の隣人が誰のことなのか分からない、まだ見つかっていないという人は、
神の前にひとり立つ個としての自分自身と向き合っていないのかもしれません。
私も偉そうなことは言えません。私はアジア学院の仕事が自分の使命だと思っています。
子を持つ母親としての、また娘としての役割も使命だと思っています。
でももう一度、My landMyselfをしっかり見つめ、
神の前にたったひとりだけで立つ個としての自分を見つめ直したいと思っています。
神の前に、神と自分だけの、たった二人だけの場で、自分はどのような個、
人格を持つ人間なのか、神は何を自分に語り、何を求め、また自分は自分の何を神に示し、
神に伝えたい、どう関わりたいと思っているのか、そうしなければ、
自分の信仰に立っての生き方であるかどうかはわからないような気がするからです。

 

アジア学院では昨年の秋に、私たちの長年のよき友人である、
アメリカ人の宣教師(と言っても日本育ちなので、日本語は平均的な日本人よりもうまいです。)
による「尊厳」についてのワークショップをやっていただきました。この宣教師は、
Donna Hicksというアメリカ人の精神科医で世界の様々な紛争解決に貢献してきた方の考えをもとに、
「尊厳」を深く理解する、とてもわかりやすいワークショップをやってくださり、
昨年のアジア学院の学生たちの間で「尊厳」(dignity)がブームになるほどでした。

何がどうよかったかと言いますと、普段私たちは「尊厳」ということを何かとても大切なものだと知りながらも、
あまり深くは考えていないと思います。辞書を引きますと、「尊くおごそかで、
犯しがたいこと」というような説明が出てきますが、そこからそれをどう掘り下げていいのかわからないと思います。
でもそのワークショップで紹介されたDonna Hicksの「尊厳」の定義は次のようなものでした。

 

「尊厳とは、生きるものすべての生来の価値と弱さ(もろさ)を認めて受け入れられることから来る、内面の平安」

あるものを見て、なぜそれを「尊く厳かで、犯しがたい」と思うのかというと、
それはそのもののもつ「すべての生来の価値と弱さ(もろさ)を認めて受け入れられることから来る、
内面の平安」が感じられるからだというのです。赤ん坊を見てだれもが尊厳を感じるのはそのためです。
偉大でも、強力でもない。小さくて無力なのに、なぜ赤ん坊を見ると誰もが尊厳を感じるのかは、
そこに私たちが、赤ん坊がもつ生来のすべての価値と弱さ(もろさ)を認めて、それを100%受け入れて、
その結果私たちの心の中になんとも言えない平安が与えられるからです。

 

最初にお話しした、自分だけの大切な平安の場所、My Landは、
私たちひとりひとりの「尊厳」のある場所なのかもしれません。
何か強烈で強い自分だけの個性や価値観で埋め尽くされた場所ではなく、
弱さともろさも併せ持ち、それらがそのまま受け入れられる場所、そしてそこは神さまに愛される場所、
神様が作った私の人格、それが私たちの尊厳なのかもしれません。
私はそこが神様と会うべき場所なのではないかと思いました。
いえ、神様はすでにそこにおられます。自分がそこに立っていないだけのです。

 

自分の尊厳を自分でしっかりと感じ、受け止め、それを神様の前にお示し、
その人格を愛していただいていることを、しっかり感じたいと思います。そうして心に平安を得ることが、
つまりは第1、第2の戒めを行うことにつながるのではないかと思いました。その前提なしに、
心を尽くして神を愛するも、隣人を愛するもないのです。
どんな弱くとも、無様でも、罪深くても、唯一無二の個、人格を生きる、
そしてそんな自分を何が何でも愛し抜いてくださる神様がいる、血みどろになっても私の人格、
魂を愛し、ただただ共に優しくいてくださろうとする、その究極の平安があるからこそ、
その神を心をつくし、精神をつくし、思いを尽くして愛することができるし、
それこそが信仰の土台、または根幹となるのだと思います。
そしてその上で与えられる隣人を、自分が神さまにしていただいているように愛する、
寄り添う、尽くすことが、信仰を生きるということになってくるのだと思います。

 

レントの時、私たちに求められているのは、こうして神の前にひとり立ち、自分をさらけ出し、
その悲痛なお姿の中にも、私たちを愛しぬく姿をしっかりと見定めることだと思います。
そうしてこそ、そんなにしてまでも愛してくださる神に感謝し、
そこまで愛されている自分を愛することができるのではないでしょうか。