ナザレのイエス、ユダヤ人の王
ヨハネによる福音書 19:17-22
イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、
すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、
イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、
「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、
多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。
それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、
『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
ハレルヤ!主の御恵みとお守りと導きが皆様の上に豊かにありますようにと願い祈ります。
何時も共におられた大下先生無しに礼拝を守ろうとしたら本当に大変でした。
今日はキリスト教では大事な礼拝の中の一つです。
受難週、英語ではHoly Weekと呼ばれている週です。
来週は2020年度のイスター礼拝です。
皆さんの週報ボックスに今週中に主イエスの足跡を思いながら
神様の復活の恵みに導かれる一週間を過ごすために
イエスの十字架の歩みについて紙を入れました。約2000年前に十字架の道を選び、
最後まで人間としての歩みをされたイエスについて深めて行きたいと思います。
出来れば短く大切な部分を話したいと思います。
受難週はイエスの十字架、イエスの死を偲び、
神の愛を身近に味わう時です。
ですから断食したり、特別な祈りに時間を割いたりしながら、
イエスの十字架を見上げて行く時です。
今日の聖書の個所にはイエスの十字架がクローズアップされています。
三つの十字架が有ってイエスの十字架は真ん中に有りました。
ピラトは罪状書きを書いて十字架の上にかけました。
『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』とヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあります。
ヘブライ語では'ישוע הנצרת, ומלך היהודים'.です。
4つの単語で書かれています。
その時ユダヤの祭司長はその罪状書きを変えようとしましたがピラトは断りしました。
ここには素晴らしい神様の計画が隠されています。
この四つの単語の頭の字を読むとיהוה (YHWH)に成ります
。この言葉は出エジプト記3:15-16に書かれています。
モーセは神の招きを聞いた時に、
13節であなたの名前をどう表せばいいですかと問いかけると、
神は15-22節までの神様の約束を与えました。
そして14節で『私はある』と言い、15節ではיהוה (YHWH)と神の名前を示したのです。
この言葉を日本語訳では主と訳しています。
でもこの神の名前には秘密が隠れています。
ヘブライ語はそれぞれのアルファベットに意味が有ります。
Jehova あるいはYawehのיהוהのי(ヨド)はHand手の意味が有り。
二つ目のהはテントの入り口や窓を意味します。
窓を開けると空気が入りますから呼吸という意味や、
窓から外を見る又は外からも中が見えるという意味があり、
この二つの単語で手を見るという意味が有るのです。
神様の名前には神様の手を見ると神である事が分かると、
神はモーセに教えたのです。三つ目の単語はוは釘、
繋がるという意味が有ります。
四ツ目は同じく見るですから神様の名前の意味は手を見る、
その釘を見るという事になります。
イエスの十字架を知らなければ神様の事は分からないのです。これが神様の名前です。
もし祭司長が要求した罪状書きに成っていたならば
この秘密は無くなるのですが、神様はピラトさえ用いて神の計画を示したのです。
神はヨセフとマリアに名前をイエスと名づけなさいと命じました。
イエスの名前は自分の民を罪から救うからであるとマタイによる福音書1:21に書かれています。
イエスの名前をヘブライ語ではישועです。ישועはYeshuaと読みます。
初めのיは手、二つ目のשは力、全能、全ての事を治め全ての事が出来る方、
三つめのוは釘、四ツ目の ע AyinはEye 目look見る、
experience経験する、の意味がありますから、
イエスの名前に含まれた意味は全てのことが出来る全能の手、
釘に打たれた経験がある手を見なさいという意味になります。
ですからマタイによる福音書1:21で民を罪から救う方ですと表したのです。
ですからイエスは名前に相応しい時、
過ぎ越し祭の時に十字架に掛かりました。
それで洗礼者ヨハネは、ヨハネによる福音書1:29で
『ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と語りました。
小羊とは出エジプト記12章に書かれている過越を示しています。
神様の裁きから過ぎ越す。
救われる事、イエスの十字架によって守られるの出来事のです。
出エジプト記12章の過ぎ越しの子羊はイエス・キリストの十字架を予告していたのです。
旧約聖書と新約聖書は異なる書ではなく、新約は旧約の完全版です。
過ぎ越し祭の時に、完全で永遠に与えられた過ぎ越しの子羊として、
またその血潮によって過ぎ越しの恵みを与えたのです。
神ご自身の手に打たれた釘の跡を私たちに見せながら、
この印こそが全能の神の印なのだと見せたのです。
これこそ神の愛であり神の御心なのです。日本語の聖書の「主」という単語はJehovaの訳です。
これらの素晴らしい言葉を、エホバの証人と言う信仰の伝統から離れた団体が使っています。
そのためエホバと言う素晴らしい言葉が勘違いされる恐れがあるのでJehovaの代わりに主と訳しています。
勿論主と言う意味も全能の神を意味しています。
「主なる神さま」と告白する時、釘で打たれた全能の方を見上げて神の愛と恵みを深めながら告白しましょう。
今週は受難週です。復活なさったイエスが(ヨハネによる福音書20:27)
『それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、
信じる者になりなさい。」 ここでの手を見なさいとは、神様の名前にもある手を見る事です。
神の手は私たちを愛している証拠であり、
その手によって全ての者が作られ、その手の力によって導かれています。
子羊の血潮によって過ぎ越しが与えられ救われました。
今週一週間も神様の過ぎ越しがコロナ新型肺炎から、
災いから守られますようにと祈ります。
主の名によって過ぎ越しのお守りが全世界の神の民に与えられますように祈り求めます。
賛美で締めたいと思います。21-298の賛美ですが異なるメロディーで賛美します。
プロジェクターを見ながら共に歌詞を味わいながら賛美しましょう。