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復活なさったイエス・キリスト

マルコによる福音書 161-8

『安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、
イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。
石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に
座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、
あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。
かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。
震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。』

 

 

ハレルヤ!主イエスは復活なさいました。主の素晴らしい業をほめたたえます。また来られますように。

イエスキリストの復活は初穂に成りました。そしてイエスに結ばれた人は
皆イエスのように復活の恵みが与えられ生かされて行きます。
コリントの信徒への手紙Ⅰ15章に書かれているように、
36
節に「愚かな人だ、あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。」とあります。

先ず復活とは何ですか。今、私たちは科学的に進歩した世界に居ます。
科学的では無い事を受け入れるのは、とても難しいでしょう。
イエスの復活の出来事は理解する事では無く信じる事だと、聖書は何時も言っています。

理解できる事は理解してください。でも信じる事は理解を超えているのです。
信じることで神様を認め、信じる生き方をしましょう。

1. イエスの復活は歴史的に事実なのでしょうか。



 イエスの復活の証拠はイエスの遺体が無くなり、お墓が空になった事です。

歴史的にもイエスの死について明確に書かれています。
イエスが葬られた事も記録に残っています。イエスは約束された三日後に復活なさいました。
そして12人の弟子の中の数人にイエスが現れたと書かれています。
自分の先生であるイエスが突然十字架で死刑にされた事で、
精神的にショックを受けているので、たとえイエスに出会ったと言っても、
それは大きなトラウマによる精神異常の状態ですと言われてもしかたありません。

でもイエスの弟子全員が復活なさったイエスに40日間会ったと書かれています。
復活なさったイエスと出会った人が、500人もいるとパウロは語ります。
そして彼らは命をかけてその証人となりました。

紀元前の時代に起きた出来事が、人から人へと口で伝えられる期間から
文字で記録され残される期間が短ければ短い程、
事実である可能性が高いと言われています。

マルコによる福音書は65年〜70年ごろに出来たと言われています。
イエスの復活を経験した時代に書かれたと言う事は、
科学的にも歴史的にも事実で有る可能性が高いのです。

 

2. イエスの復活を信じると。



イエスが復活なさった日には、初めイエスの弟子たちさえ信じなかったです。
マルコによる福音書1610-11 『マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、
このことを知らせた。 しかし彼らは、イエスが生きておられること、
そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。』

ヨハネによる福音書2019に弟子たちはユダヤ人を恐れて、
家の戸に鍵をかけていた時復活なさったイエスが現れました。


トマスはその時、その場にいませんでした。復活なさったイエスに会ったという弟子たちの話しに、
「私は信じない」とトマスは答えました。その時イエスはトマスに現れて
私の手と腹を見て信じる者になりなさいと声をかけたのです。
しかしトマスは自分の目の前に居られる復活されたイエスを見ても信じる事が出来ませんでした。

イエスの復活の信仰は知識で得る事でもなく、学ぶ事でもなく、
哲学的な研究で得る事でもないのです。神様の恵み、聖霊の力によって信じることが出来るのです。

ルカによる福音書241336の聖書の言葉を読むとエマオで現れたイエスの出来事が記されています。



復活のイエスと出会った二人の弟子は気付きませんでした。
イエスが聖書全体にわたりご自身について書かれていることを彼らに詳しく教えましたが、
それでも分からなかったのです。
でも3031節に『一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、
賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
すると、
二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。』と書かれています。

イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったとは、
イエスの最後の晩餐や聖餐式を思い出します。
聖餐式とは私たちの救いのためにイエスご自身が命を捨てて十字架で死なれたことは、
まさに神の恵みと愛であったことを告白することです。
信仰の告白であり、信仰の告白をする時でもあります。
自分は救いが必要な罪人である事を告白し、
神様の愛に気づき受け入れると、聖霊の恵みによって信仰への目が開かれて
信じるように成ると明確に教えています。
使徒言行録2章からは、聖霊の臨在の力によって
復活されたイエスの証人として命をかけて従った初代クリスチャンの出来事が記されています。

3. 復活信仰の恵みとは

生きる希望と力が与えられます。今までの弟子としての歩みを止め苦しみの中で
エマオという村に向かっていた二人の弟子は、復活されたイエスに出会い、信じることで心が燃えたのです。

迫害が有っても諦めずに福音の証人に成りました。
死んでも生きると信じ、勇気を持って希望を持って生きるように成ります。

イエスの復活が初穂であると信じることで、
私たちにも栄光に満たされる復活の体が与えられるという信仰が持てるようになるのです。

復活が無ければ、永遠の命が不確かになります。でもイエスの復活の恵みによって、
私たちも復活のイエスの姿のようになるのだと教えられ、永遠の命を希望として持つように成るのです。

復活の恵みは死んで暗闇の中に居るのではなく、希望の光に導かれていくということです。

復活の信仰は絶望の時にも希望の明日がある事を教えて下さいます。
ですから使徒パウロはⅠコリントの信徒への手紙155357で『この朽ちるべきものが朽ちないものを着、
この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、
この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。』