聖書 ローマの信徒への手紙112832

メッセージ「今憐れみを受けるために」

 神様は、私たちのためにいつも働かれております。
今日も神様の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。
本日は、ローマの信徒への手紙から学んでまいりたいと思います。
私たちに与えられている福音とは何でしょうか?
福音とは、神様の良き知らせです。
神様の良き知らせとは、私たちが神様によって救われるという計画です。
真の神様を知らなかった者にとっては、
その救いが自分たちに向けられているとわかればどうでしょうか?
喜びに溢れるに違いありません。神様を知らなかった者にとっては、
こんな私でも神様は愛してくださり、救いの対象にしてくださるのです。
「ヤッター」と思わず叫んでしまいそうです。
一方で神様の律法を忠実に守ってきたイスラエルの人たちにとっては、
神様の与えられた律法を守ること以外に救いはないと思っておりました。
ですから、その律法を知らない者がなぜ神様の救いに与れるのか、
また律法を破る者がなぜ神様の救いを得ることができるのか、
意味が分からなくなっていました。
その意味を理解しない者にとっては、
福音そのものがおかしいのではないだろうかと考えてしまいます。
しかしそのことも十分承知の上で神様はイエス様をおつかわしになりました。

神様がイエス様をお遣わしになった時、
律法学者や祭司はイエス様に対してどのように考え、
どのように接してきたでしょうか?
まず行ったことは、イエス様の語る言葉に耳を傾けました。
しかし自分たちが学んできたことが正しい理解であると判断をしました。
人間そんなにはすぐに変えられません。
今まで信じてきたこと、学んでいたことをすぐに切り返すことは難しいのです。
その結果どうしたかというと、イエス様を非難批判いたしました。
罵声を浴びさせ、石で何度も打ち殺そうとします。
つまり律法で裁くことを考えました。
しかしどんなに計画をしても失敗に終わりました。
なぜならそれは人間が計画していたからです。
神様の計画は律法の教えに従って命を奪うのではなく、
十字架につけることを神様が約束なさっていました。
つまり律法によって命を奪うのであれば
神様の計画は意味をなさないものとなってしまうからです。
神様の約束の成就こそが本当に必要な事だったからです。

神様の業のすごいところはその様な状況下にあっても、
イエス様を信じる者が増えてきたことも事実です。
律法によっても救われたという実感がない人もいたのです。
その人たちにとって救いとは何なのだろうと
考えていたのかもしれないのです。
そんな時にイエス様が現れて、神様の言葉を語り、
社会的排除を受けている人たちに寄り添い、愛を注がれました。
その語る言葉に耳を傾け、憐れみを受けて、
ようやく神様の恵みを感じることができたのです。
神様という存在を直接肌に触れて生きることの
実感が湧いてきたのではないでしょうか?
神様の憐みは、律法を学んできた者や祭司といった
階級層だけを救うのでしょうか?そうではありません。
貧しい者も、富んでいる者も、苦しんでいる者、
社会から疎外を受けている者も、権威ある者も、男性も、女性も、
こどもも、おじいさん、おばあさんにも
神様のことを知らない者にも神様の愛は豊かに注がれるのです。

律法と福音どちらも正しくどちらかが間違っているわけではないのです。
現に聖書では、このように書かれています。聖書の持っている方は、
マタイによる福音書5:17~20節を読んでみましょう。
新共同訳聖書の7ページです。無いお方はどうぞお聞きください。

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
廃止するためではなく、完成させるためである。
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、
律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、
そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。
しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなるものと呼ばれる。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、
あなたがたは決して天の国に入ることができない。こうイエス様は言われました。

そもそも律法を正しく理解していれば、律法は私たちにとって有益に働くはずであります。
なぜなら神様が与えてくださったからです。
しかし、間違った捉え方をしてしまうとどうでしょう。
自分の考え方が正しい。わたしが基準であると
高慢な気持ちが生まれてくるのではないでしょうか?
もしかしたら
100%正しい場合であっても神様はどのように思うでしょうかね。
その高慢な心をほってはおかないでしょう。きっと残念な思いを抱くかもしれません。
その自信を取り去るかもしれません。

その高慢な気持ちは、律法を守っている人にとっては、
律法の考えに背く言動や行動を許すことができないのです。
つまり相手を批判する心を持ってしまいます。
ただただ律法を言葉通りに守ることだけを重点に置いた時、
律法を守れない人はみんな罪人であると決めつけること自体が
裁きの対象になってしまうのです。
世の中には神様の律法を知らない人々もいるし、
知らない者のほうが大勢いるのです。
間違っている人に対してはじめは優しい言葉で教えるかもしれません。
でもいくら言っても理解してもらえない時には、大声を張り上げ、
攻撃的になってしまうのではないでしょうか?
そして二人だけの関係であればよいですが、
そのことをほかの人にも話をしてしまうことはないでしょうか?
人間ですからそのように相手を見下げてしまうこともあります。
ですけども範囲を広げる必要性は全くないのです。
それは相手をおとしめる原因を造ることとなるのです。
神様はそんなことは望んでいません。
神様はわたしたちに自分を愛するように隣の人を愛せよと言われています。
そのことにまず私たちは心を向けていかなければならないのです。

次に福音に至ってはどうでしょうか?
神様は全ての人を対象に福音を述べ伝えなさい。と言われています。
つまり福音は、すべての人対象のものなのです。
それは律法を知らない人にも、神様を信じない人にも
この地球に住む全てのものに注がれているのです。
この福音も律法と同じでみんなに与えられているわけですから、
当然みなさんに教えてあげたいという気持ちは出てきます。
そのような中で、どうでしょうか?
もしも考え方の違いの人に出逢ったとします。皆さんどうでしょうか?
「その考え方は間違っているよ」と指摘をし、

「無理やりこれを信じなよ。」と突きつけたとしたらどうでしょうか?
たぶん相手は不快な思いを抱くのではないでしょうか?
まずすべきは何かと申しますと、神様に委ねていくのです。
つまりお祈りをするのです。そして呪うのではなく祝福するのです。
そして私たちは愛の実践を行うのです。
自分がしてほしいことを相手にしてあげるのです。
これが私たちの生きる道であり、神様の憐みなのです。
今、本当に神様の憐れみを必要としています。
多くのものが神様を信じない世の中です。
神様を信じていても変な神様を信じるもの人もいます。
疑心暗鬼になり、人のことを信じられない世の中です。
社会からつまはじきにされ疎外感を抱いている多くの人たちがおります。
そして様々な力を手に入れた者が「自分は偉い」と勘違いしてしまう
考え方が蔓延しています。今こそ神様の憐みが必要な時です。
私たちは共に祈り神様の憐みが注がれますように祈っていきたいと思います。

ご在天の神様、感謝いたします。
今日は神様の憐みについて学ぶことができました。
私たちにはあなたの憐みが必要です。どうぞ世界の人たちにあなたの憐れみを注いでください。

そして私たちがあなたの憐みに気が付くことができますように。
そして自分の隣人に愛をもって接することができますように。
どうぞ相手を批判する傲慢な心を取り除いてください。
この
1週間もあなたが共にいてお守りください。
このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン