メッセージ「救い主イエスは」

聖書 使徒言行録132731

おはようございます。氏家教会の水谷です。

今年度、氏家教会では使徒言行録からの学びを継続して行っています。
本日は、使徒言行録1327節から31節までの箇所について学びたいと思います。

「ピシディア州アンティオキア」という地で宣教を行っていたパウロは、
安息日に会堂で話すように頼まれます。そこでパウロが語ったのは、
旧約聖書の時代にさかのぼって語られる、救い主イエスについての「証」でした。(2728節読みます)

…ここで描かれている「イエスを認めない・理解しない人々の姿」は、
他人事ではありません。エルサレムに住む人々やその指導者たちが、
それまでのユダヤ教の枠組みや当時の社会の常識や自分たちの正しさを大事にするあまり、
神が送られたイエス様のことを認められなかったというこのエピソードは、
私たち一人ひとりに向けても語られているのではないでしょうか。
「救い主イエス」は、誰によって殺されたか、ということです。

 話は変わりますが、昨年の1123()に、
氏家教会で「栃木地区オータムフェスタ」が行われました。
「教会が全ての人と共に歩むために」という主題の元、
竜ケ崎教会の牧師飯塚拓也牧師が、「教会につながる全ての人が、
自分たちが共に歩むべき人のことを学ぶこと」についてお話しくださいました。
そこでは、神様によって与えられた「出来事から」「出会いから」
「失敗から」「自らの発言や行動から」、自分自身の「当たり前」
「常識」が変えられていくという、様々な事例も紹介されました。
この時のお話を伺いながら、前任の幼稚園で幼稚園教師をしていた時のことを思い出しました。

 それは、年度も終わりのころのスタッフミーティングでのことでした。
年長組の担任の先生が、前日の個人懇談の報告をしました。
「○○君のお母さんと面談をした時のことです。以前から、○○君が園で『パパが帰ってこないんだ。』
『パパとママ、けんかしているんだ』と言っていたので、
お母さんに『○○君からお父さんのことでちょっとお話を聞いたのですが、
これから丸々君が小学校に上がることを考えても、
ますますお父さんの存在が必要になってくると思うんです。
お母さんにもいろいろな事情はあるかもしれませんが、夫婦で話し合って、
以前のように○○君とお父さんが一緒に生活できるようにしていく努力を
続けてみてはどうでしょうか!?』ということをお話したんです。」
すると、それを聞いた園長が突然次のように言ったのです。
「○○君のお母さんからアドバイスを求められたのならともかく、
求めてもいないのにご家族のプライベートなことに口を出す・意見をするなど、
もってのほかだ。まずは、お母さんの話に耳を傾けるべきではなかったか。」
「父親からDVを受けていたり・○○君が虐待されていたりしたらどうするのか。」
「父親と母親の両方揃っているのが『普通』なのだという、
家族観に縛られていなかったか。」、園長はいつもの穏やかさと全く違う様子で立て続けに言いました。

これに対して、先輩の保育者は「私はただ、ごく一般的なことを言っただけで、
そんなつもりなかったのです…」と応じ、それに対して園長がさらに
「それが間違っている。『一般的』ではなくて『目の前のその人』に耳を傾けなければいけない!!」と言ったのです。

1123日のオータムフェスタの「教会がすべての日とともに歩むために」というテーマと、
そこで語られた「目の前の人と出会い・学び・変えられていくことで、
『共に歩む』を実現していく」ということに通じる気がいたしました。

もう一つ、事例をお話ししたいと思います。
公園で、あるお母さんがベビーカーに赤ちゃんを乗せてやってきました。
そこへ、こども好きのご婦人がニコニコと近づいてきました。

婦人「あら、笑っている!!何歳ですか!?」

母親「13か月です。」

婦人「まあ、可愛いさかりですね!!」

母親「ええ。」

お母さんも笑顔で応じてお別れしました…と言う、それだけの話です

ところがその日の夜、このお母さんは子どもを殺した後、自分も死んでしまうのです。

子育ての苦しさをつづった彼女の日記の最後のページには
今日、公園に行った。女の人に「可愛いわね」と言われた。
わたしには正直、この子が可愛いとは思えない。その場に笑顔で居ることが辛かった。」と
残されていたのだといいます。もしも、公園にいたご婦人がこのことを知ったら、もしかしたら先輩保育者のように

「わたしはただ、ごくごく一般的なことを言っただけなのに…」と戸惑うかもしれません。

またこの子のご婦人が罪に問われることももちろんないでしょう。
しかしだからこそ、聖書はイエスの存在は、わたしたちに何かを突きつけるのではないでしょうか。

「あなたは、すでに出会った・あるいはまだ出会っていない、
『神の良い報せ』を受けるべき人たちのために、『変わり続けていますか!?』
「学び続けていますか!?」と。

「誰かを知らずに死に追いやっていませんか!?」

「イエスを、知らずに死に追いやっていませんか!?」

「私たちの生活から、集会から、教会から、礼拝から、
誰かを締め出してはいませんか!?」と。

1123日のオータムフェスタで語られた「全ての人と共に」というテーマは、
イエスの教えに基づいています。私たちが継承してきたキリスト教の教え・信仰の根幹だと言えると思います。
それは何かというと、

「全ての人に与えられた『良い報せ』を告げるために、全ての人に寄り添い・全ての人と共に歩むこと」です。
だからこそ、「出会い続けること」「学び続けること」「変わり続けること」が必要になってくるのだと思います。
全てを見つめ・振り返る時を大切にしたいと思います。