聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 118-25
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
わたしたち救われる者には神の力です。 それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。
神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。
そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、
十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。
すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、
神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

説教十字架の恵み

 

 

ハレルヤ!主のみが皆と共に何時も降り注ぎますようにと願い祈ります。
今年は421日がイスタ
ですから、例年と比べると少しいくレントに入りました。
私たちの
に私たちを愛するために苦難の道を選び、
重荷を負い十字架の道を
んで下さったイエスの限りないみを思う時期です。
隣人と「限りない主の愛が降り注ぎますように」と祝福の言葉をかけ合いましょう。
昨日は幼稚園の卒園式が有りました。 
幼稚園と保育園から出て小
に入る子供たち、
それぞれ上の
に入ろうとする子供たちを神が守り、
助けが有りますようにと祈りで支えましょう。

木曜日の21日は春分の日ですからこれからは夜の時間が短くなりの時間が長くなります。
の日みの上に、
春の命の元に成る神
の定められた贖いとみと助けが皆さんと共に有りますよう願い求めます。
今日はコリントの信徒への手紙Ⅰ1章の御言葉を用いて
『十字架の言葉』の題目で語りますが聖書の言葉通りに使いましたが
英語の訳の聖書を読むと十字架の教え、メッセージにありますが
私は十字架の恵みと理解したいです。十字架の事を神の御言葉として共に分かち合いたいと思います。

キリストでは十字架は大切な言葉です。
十字架の
みなしには生きられないほどに十字架を思い悔い改め、
十字架の元で志を再び持って、その
みのよって奉仕するのです。

十字架とは何ですか。

 

1. 神が私たちを愛してくださる愛の象です。

神の愛をし、神の愛の証を証明する物も十字架です。
マルコによる福音書1045『人の子は仕えられるためではなく仕えるために、
また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために
たのである』と書かれています。
氏の場合保為払ったお金が10億円でした。
もし誰かが彼を愛して身代金を
うと、そのお金の金額でどのくらい愛しているかが分かります。
この世で誰が私の
に命をかけて守ってくれますか。多分私のに身代金1億円を
ってくださる方はいないと思いますが神は尊い命であるイエスキリストの十字架の
贖いと
みを下さいました。ですからパウロはガラテヤの信徒への手紙614
『私たちの主イエス
キリストの十字架のほかに、
誇るものが決してあってはなりません』と
く語っています。
言葉で「愛します」と言えますが、行動で見せない言葉は死んだ言葉です。
ですからイエスの十字架は神の愛を明らかにする生きた言葉だと私は思うのです。

 

2. 十字架は神の知です

23節に異邦人には十字架は愚かな物ですが24節には神に召された人には神の知であることを語っています。

多くの方は便利さを求めます、多くの方は苦しみが無い明るい時を求めていますが、
聖書はこれらの事を愚かな事だと言うのです。

勿論世には罪が有るからこそ苦しみが始まりましたが、
苦しみこそ信仰にとって
みの入り口なのです。十字架の道が有るから復活の命も有るのです。
には成長痛という名は、原因不明の子どもの脚の痛みをいうのに便利な一般用語であっても、
医学
的には適な名はありません。と書かれていますが、
成長に伴う痛みではありますが良い喩えにはなら無いと思います。
何の痛みも感じないのも恐ろしい事です。何かにぶつけていたくなるから後からはぶつけないようにします。
自分が打ち
かれて痛くなるから相手には同じ痛みを与えないようにするのが人間らしさでは有りませんか。
誰かが苦しい時に共に苦しみの時にいる事によって、その人とい絆が生まれます。
一つの種が死ぬ事でもっと多くの
を結ぶのです。
車保の新たに契約するため保事務所に行ったときにドライブレコめられました。
自分が
くないのに相手が自分の正しさを訴えると困りますよと聞きました。
昔は出
れば相手に迷惑をかけないようにとしたのに、
今は自分の正しさや利益だけを求める
な時代に成った事に付き辛くなりました。

クリスチャンの生き方は十字架のみと共にむことです。
いつも相手に自分の正しさを訴えるのではなく、時には苦しみを選び相手を愛する事です。
十字架で死ぬ事によって復活の朝が
るのです。自分を今、
低くする事で後には高くなる時期が
るのを信じ、苦しむことで胸を張って喜びと共にむことも出るのです。

ですからパウロは召された者に、十字架の苦しみは神の知ですとえています。

3. 十字架の恵みはは力です。

18節と24節に十字架は神の力ですとえています。

十字架が神の力に成るのは、十字架が終わりではなく復活に導く道だからです。

十字架のイメは苦しみです。世の多くの部分には苦しみが重なっています。
でも信仰を持って御言葉と共に行くと、十字架の苦しみが復活に導いて下さいます。

コリントの信徒への手紙Ⅱ 129に『私のみはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に
されるのだ』とパウロは語ります。
ですからコリントの信徒への手紙Ⅱの49-11に『虐げられても見捨てられず、
打ち倒されても滅ぼされない。 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、
イエスの命がこの体に現れるために。 わたしたちは生きている間、
絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。』と語ります。

 

今年のレントの時期に十字架から教える神の恵みを心に留めて、
十字架の意味から味わう素晴らしい
みに導かれて、この世の誘惑に倒れず、
自分の弱さ、苦しみの道にも希望を持って復活の朝に向かって前に進み出ましょう。

の惠がレントにあたり十字架のみを探している皆の上に豊かに降り注ぎますようにと願います。