聖書:フィリピンの信徒への手紙 2:1-11
説教:イエスの心を見習って
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、
それに慈しみや憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、
思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、
互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、
他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。
それはキリスト・イエスにもみられるものです。 キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、
僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、
死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、
イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、
「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
ハレルヤ!主の恵みが皆様の上に降り注ぎますよう願い祈ります。
受難節レントの時でもあり西那須野教会の創立記念日でもある主日です。
126年前にこの地に福音の種が蒔かれ、先週は教会の総会も終え、
新たな役員が選出され2019年度も始まりました。
新たな役員会、新たな年度そして新たな宣教方針に基づいて
新たな歩みを始めたいと思います。皆様の御協力をお願いいたします。
それではお互いに挨拶をしましょう。
「今年度もよろしくお願いいたします」と今年は聖書で
教えている信仰にならい、イエスに結ばれて歩みたいと思います。
今日の説教のキーワードは「イエスに見られる心」です。
すなわちイエス・キリストにならって生きることです。
何か私たちの行いや生活からイエスの言葉が見えてくる事が出来たらと思うのです。
使徒言行録11:19-26にはパウロの伝道によってアンティオキア教会が始まりました。
そしてアンティオキア教会に参加した人々はキリスト者と呼ばれたと書いてあります。
一番初めにクリスチャンと呼ばれたのです。キリスト者とはイエス・キリストのように生きる者のことを言うのです。
先ず、自分の心に問うてみましょう。
126年の歴史を持つ西那須野教会にイエス・キリストのような心が見つからないのなら、
西那須野教会は宗教的団体としての集まりに過ぎません。
でも、聖書に基づいた教会でなくてはならないのです。
自分の弱さを打ち砕きイエス・キリストを見上げて生きましょう。
韓国にあることわざですが「二人が結ばれ結婚してお互いに
愛し合って長く過ごすと二人は何か似てくるようになる」と言われています。
もし一年二年と年を重ねてイエスを見ていたのに、何も変わらず、
イエスに似て来なければ、問題が有るのではないかと思うのですが、
実際は難しいことでしょう。
スポーツでも、音楽の演奏でも、踊りでも、
先ず自分が学びたいと思う人のことを見て、
同じようにしようと真似て練習し、それが自分のものになってから、
それを発展させて自分のものになると言われています。
いつもイエス・キリストの心を見上げて生きましょう。
よく習いたいなら、まずよく見ること、そして練習することです。
では今日の聖書から学ぶイエス・キリストの心とは何ですか。
1. 1節の言葉にはキリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、
慈しみや憐れみの心だと言われています。これらのことがキリストの心を表します。
聖書に書かれた憐れみと普通に使う哀れみと漢字は違いますが同じ読み方です。
しかし意味は違います。
哀れみは他の人の苦しみ悩みを聞いて悲しみを感じることであり、
憐れみは心に感じた事を何かの形で行動に移すことを意味していると
辞書に書かれていました。キリストの言葉はこのように生活の中で
生きた言葉として働き、そのみ言葉と共に生きることをパウロは教えています。
ですから自分が使う言葉には励ましの言葉を使っているのか、
愛の心で相手を裁くのではなく慰めているのか、
聖霊の導きによる交わりを実現しているのか、
慈しみと憐れみの心をもって歩んでいるのかと
自分自身に問いかけてみましょう。もしかしたら自分はイエス・キリストに
習ったことを生活に適用している事が少しはあるが、
完全には出来ていないと思うかもしれません。その点で神様の前で、
そして聖書のみ言葉の前で、自分自身の弱さ、愚かさを感じるでしょう。
こんな私を見捨てないで限りない愛とお赦しをくださったからこそ
神様の御恵みに感謝するのです。自分の弱さを振り返りながら、
信仰に基づいて生きようと志を立てて、
その志を確かめることも信仰の生活の大事な事では有りませんか。
私は牧師として人々と接するときに時々使う言葉は祈ります。だと思います。
勿論他のことが出来ないからと言って多くの牧師たちは祈りますと言いますが、
今日の1節の言葉を何回も読むと悔い改めの心が出ます。
慈しみと憐れみの心は何ですか。慈しみとは何ですか。
慈しみは慈愛、と言われています。讃美歌にも「慈しみ深き」と讃美しますが、
慈しみとは無条件の愛、母親が我が子を思う気持ちを意味しています。
これらの心を持って生きることがイエスキリストの心を学んで生きることだと教えています。
人間はいつでも愚かな者、自己中心的に生きる罪人ですから、
私たちは正しい模範としてイエス・キリストを見上げて行かなければなりません。
イエス・キリストを自分の模範として生きることです。
イエスの心を思い浮かべながらイエスのように生きる志を立てましょう。
限りない愛と慈しみと憐れみを持って生きましょう。
先週宣教師会に行ってきましたが、
毎年出会う宣教師とは親しく成りますが長い間出会うことがないと忘れます。
教会に来て礼拝する時間だけイエスの心を思うのであれば、
信仰の成長には何か足りないと思います。
イエスの心を学びたいなら、
いつも祈りながらイエスの心とイエスの導きと
教えを求めて生きることをお勧めいたします。
2. 3-8節の御言葉にはへりくだった心を持ち、
相手を優れた者と考え、僕の身分として来られたイエスのことを覚えよと教えています。
罪の始まりは何ですか。
創世記の出来事ですが、人が神のように成ろうとすることから罪は始まりました。
神さまのようになれるという誘惑があって、知識の木の実を取って食べたのです。
なぜ自分が神のようになるのかと、へりくだった心を持ち、
僕のように生きようとしていたなら罪を犯さなかったのではないでしょうか。
もちろん良くなりたいと思うから社会は発展して行きます。
技術は発展していきます。今よりも立派になりたいと思うから力を出していきます。
誰よりも上に立ちたいと思い力を出しています。ですから競争社会になりました。
自分が勝ちたいと強く思うから嘘も使います。自分の弱さは隠します。
でも私たちが模範としているイエスは自分をへりくだり僕の身分になり、
自分を無にして十字架の道を選び従順に神に従ったのです。
多くの人々が残した足跡もありますが、
イエスが私たちに見せてくださった信仰の足跡をよく見て、
イエスのように生き、イエスのように自分をへりくだり、
イエスの心を学びつつ生きましょう。
聖書のみ言葉を学びつつ知識をひけらかすのではなく、
聖書の教えに従って歩み、信仰の元点に基づいて、
西那須野教会の牧師である私の姿や、
皆さんの姿から何かイエスのようなことが、イエスに似た何かが出てきたら喜ばしいと思うのです。
礼拝に参加して礼拝を大事にして生きる信仰を思いましょう。
ヘブライ人への手紙10:25の『 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、
むしろ励まし合いましょう』との教えに従って生きましょう。
礼拝で習うべきイエスの愛、憐れみ、慰め、十字架の道を求めましょう。
それによって新しい時代を作り上げって行きましょう。
世界の罪と、争いと、暗闇に対して、
今この時に神様が望んでおられる事が何かを問いかけながら、
世界を変えようとするのではなく少しでも自分自身から変わっていきましょう。
私が変わっていくと私とあなたの間に変化が生まれます。
西那須野教会が変わっていかないと西那須野地域は変わらないのです。
私たち一人一人が、もしかしたらアジア学院の学生を含めた私たちが、
イエスに学びイエスに従って変わって行くと全世界に本当の平和と愛が生まれるのです。
2019年度を始めるにあたり、聖書で教えている信仰は何かを思いつつ生きましょう。
必ず神様の導きと助けと恵みがあると信じます。