聖書:フィリピンの信徒への手紙 21-11

説教イエスの心を見習って

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、
それに慈しみや憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、
思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、
互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、
他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。
それはキリスト・イエスにもみられるものです。 キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、
僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、
死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、
イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、
「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。



ハレルヤ!主の
みが皆の上に降り注ぎますよう願い祈ります。

受難節レントの時でもあり西那須野教会の創立記念日でもある主日です。
126
年前にこの地に福音の種が蒔かれ、先週は教会総会も終え、
新たな役員が選出され
2019年度も始まりました。
新たな役員
、新たな年度そして新たな宣方針に基いて
新たな
みを始めたいと思います。皆の御協力をお願いいたします。
それで
お互いに挨拶をしましょう。
「今年度もよろしくお願いいたします」と今年は聖書

えている信仰にならい、イエスに結ばれてみたいと思います
今日説教のキドはイエス見られる心です。
すなわちイエスキリストにならって生きることです。

何か私たちの行い生活からイエスの言葉が見えてくる事が出たらと思うのです。

使徒言行11:19-26にはパウロのによってアンティオキア教会が始まりました。
そしてアンティオキア
教会したキリスト者と呼ばれたと書いてあります。
一番初めにクリスチャンと呼ばれたのです。キリスト者とはイエス
キリストのように生きる者のことをうのです

先ず、自分の心に問うてみましょう。

126年の史を持つ西那須野教会にイエスキリストのような心が見つからないのなら
西那須野
教会は宗としての集まりに過ぎません
でも、聖書に基
いた教会でなくてはならないのです。

自分の弱さを打ちきイエスキリストを見上げて生きましょう。
にあることわざですが二人が結ばれ結婚してお互いに
愛し合って長く過ごすと二人は何か似て
るようになると言われています。

もし一年二年年を重ねてイエスを見ていたのに何もわらず、
イエスに似て来なければ、
問題有るのではないかと思うのですが
実際は
難しいことでしょう。

スポツで、音演奏で、踊り
先ず自分がびたいと思うのことを見て
同じようにしようと真似て練習しそれが自分のものになってから
それを
させて自分のものになると言われています。
いつもイエスキリストの心を見上げて生きましょう。
よく習いたいなら
まずよく見ること、そして練習することです。
今日聖書からぶイエスキリストの心とは何ですか。
1. 1節の言葉にはキリストによるまし、愛の慰め、による交わり、
慈しみや憐れみの心
だと言われています。これらのことがキリストの心を表します。
聖書に書かれた憐れみと普通に使う哀れみと
漢字は違いますが同じです
しかし
意味は違います。
哀れみは他の人の苦しみみを聞いて悲しみを感じることであり
憐れみは心に感じた事を何かの形で行動に移すことを意味していると
に書かれていました。キリストの言葉はこのように生活の中
生きた言葉として働き、そのみ言葉と共に生きることをパウロはえています。
ですから自分が使う言葉にはましの言葉を使っているのか、
愛の心で相手を裁くので
なく慰めているのか、
の導きによる交わりを現しているのか、
慈しみと憐れみの心をもって
んでいるのかと
自分自身に問いかけて
ましょう。もしかしたら自分はイエスキリストに
習ったことを生活に適用している事が少しはあるが

完全には出
来ていないと思うかもしれません。その点で神の前で、
そして聖書のみ言葉の前
で、自分自身の弱さ、愚かさを感じるでしょう。
こんな私を見捨てないで限りない愛とお赦しをくださ
ったからこそ
の御みに感謝するのです。自分の弱さを振り返りながら
信仰に基
いて生きようと志を立てて
その
志を確かめることも信仰の生活の大事な事では有りませんか。
私は牧師として人々と接するときに時々使う言葉は祈ります。だと思います
勿論他のことが出
いからと言って多くの牧師たちは祈りますと言いますが
今日の1節の言葉を何回も
むと悔い改めの心が出ます。
慈しみと憐れみの心は何ですか
慈しみとは何ですか
慈しみは慈愛
、と言われています。美歌にも慈しみ深き美しますが
慈しみとは無件の愛、母親が我が子を思う持ちを意味しています
これらの心を持って生きることがイエスキリストの心を
んで生きることだとえています。
人間はいつでも愚かな者自己中心的に生きる罪人ですから
私たちは正しい模範としてイエス・キリストを見上げて行なければなりません。
イエス
キリストを自分の模範として生きることです。
イエスの心を思い浮か
ながらイエスのように生きる志を立ましょう。

限りない愛と慈しみと憐れみを持って生きましょう。

先週宣に行ってきましたが
年出う宣は親しく成りますが長い間うことがないと忘れます。
教会礼拝する時間だけイエスの心を思うのであれば、
信仰の成長には何か足りないと思います。
イエスの心を
びたいなら
いつ
も祈りながらイエスの心とイエスの導きと
を求めて生きることをおめいたします。
2. 3-8節の言葉にはへりくだった心を持ち
相手を優れた者と考え、僕の身分として
られたイエスのこと覚えよとえています。
罪の始まりは何ですか。
創世記の
出来事ですが、人が神のように成ろうとすることから罪は始まりました。
神さまのようになれるいう誘惑があって知識の木のを取って食べたのです。
なぜ自分が神のようになるのかとへりくだった心を持ち、
僕のように
生きようとしていたなら罪を犯さなかったのではないでしょうか。
もちろん良くなりたいと思うから社展して行きます。
技術は
していきます。今よりも立派になりたいと思うから力を出していきます
誰より
上に立ちたいと思い力を出しています。ですから競になりました。
自分が勝ちたいと
く思うからも使います自分の弱さます。
でも私たちが模範としているイエスは自分を
へりくだり僕の身分になり、
自分を
無にして十字架の道を選びに神に従ったのです。
多くの人した足跡もありますが
イエスが私たちに見せ
てくださった信仰の足跡をよく見て
イエスのように生き、イエスのように自分を
へりくだり、
イエスの心を
生きましょう。
聖書のみ言葉をびつつ知識をひけらかすのではなく、
聖書の
えにって、信仰の元点に基いて
西那須野教会の牧師である私の姿
皆さんの姿から何かイエスのような
ことイエスに似何かが出てきたら喜ばしいと思うのです。
礼拝して礼拝を大事にして生きる信仰を思いましょう。
ヘブライ人への手紙1025の『
ある人たちの習慣に倣って集を怠ったりせず、
むしろ
まし合いましょう』とのえにって生きましょう。
礼拝
習うべきイエスの愛、憐れみ、慰め、十字架の道を求めましょう
それによって新しい時代を作り上げって行きましょう。

世界の罪と、いと、暗闇にして
今この時に神
が望んでおられる事が何かを問いかけながら
世界を
えようとするのではなく少しでも自分自身からわってきましょう。

私がわっていくと私とあなたの間にが生まれます。
西那須野
教会わっていかないと西那須野地域はわらないのです
私たち一人一人
が、もしかしたらアジアを含め私たちが
イエスに
びイエスにってわって行くと全世界に本の平和と愛が生まれるのです。

2019年度を始めるにあたり、聖書えている信仰は何かを思いつつ生きましょう。
必ず神
の導きと助けとみがあると信じます。