希望の約束

ヨハネによる福音書 1415-19

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、
永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 こ
の方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、
受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。
あなたがたのところに戻って来る。

しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。
わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

 

 

 

ハレルヤ!主の限りない御恵みが皆さんと共に有りますよう願い求めます。
挨拶をしましょう。『主の愛で、愛します。』

今日はペンテコステ、聖霊降臨祭の主日です。
復活なさったイエスは40日間弟子たちと時々共におられて天に昇りました、
使徒言行録の16-11に記されています。その前の14-5で弟子たちに約束されたことが、
間もなく聖霊によるバプテスマ(聖霊)を授けるとのことでした。

今日は使徒言行録の2:1節以下に記された出来ことを覚えて記念する日です。

ペンテコステを覚えて祝福の挨拶をお互いにかけあいましょう。

『恵みの聖霊が降り注ぎますように』と

今日のみ言葉から学ぶ希望の約束とは何ですか。

 

1. 別の弁護者を使わして下さることです。

この方を17節では真理の霊であると書かれています。
これをリビングバイブルでは助けの手を頂くこと、そしてその方は聖霊であり、
すべてを真理へと導いて下さる霊の事ですと、訳してあります。

この約束は使徒言行録の2章の出来ことで果たされたのです。

聖霊とは何ですか、という(とい)の答えは色々ありますが今日の聖書の個所はその中の一つです。

聖霊は別の弁護者すなわち助け手の事です。

聖霊と共に居ることは別の弁護者と共に居る事、助け手と共に居ることです。

何か困った時に助けの手が有るのとないのとでは大きな違いが有ります。

私が神を信じる一つの理由は助け手として私と共におられる神です。

私のために神様が別の弁護者を私が知らない時から準備して下さった
素晴らしい方だからこそ、私はイエスをこの世に下さった恵み深い神を私の神として受け入れ信じています。

これは私たちが神様に先にお願いしたからでは無いのです。

是非私を助けるために何かを支えて下さいと切に祈ったからではなく、
イエスが自ら私たちのために父なる神に祈り、その恵みによって私たちに与えられたのです。

これをイエスの弟子であるヨハネは手紙にこのように書きました。

皆さんが良く聞いた言葉です。ヨハネの手紙Ⅰ 4:10『私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛して、私たちの罪を贖う生贄として、
御子をお遣わしになりました。ここに愛が有るのです。』と

限りない神の愛と、イエスキリストの贖い恵みに感謝します。
イエスは弟子たちに約束しました。そしてペンテコステの出来事が実現しました。
今もこの約束は生きている約束であり、助け手として我らと共におられます。

 

2. 戻って来る約束です。(18)

この世の中で一番辛いことは別れることです。
たとえ毎日喧嘩をしながら過ごした夫婦であっても、別れは本当に悲しい事です。
イエスは弟子たちに18節で、あなたがたを孤児にはしておかない。
あなたがたのところに戻って来ると約束しました。

聖書にはイエスが戻って来るという二つの約束が書かれています。
一つはペンテコステの聖霊として来られることと、
使徒言行録の1:11節のマラナタの事です。マラナタの意味は通常「主よ、来てください」と訳されます。

イエスの在臨、再び来られる前には聖霊としておられます。
でもイエスを信じない、世の人は聖霊として共におられることを知らないと17節で教えました。

『世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることが出来ない。
しかしあなた方はこの霊を知っている。この霊があなた方と共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。』

ですから19節にはしばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。
私が生きているので、あなたがたも生きる事になる。と約束の言葉を伝えたのです。

これ以上の強い確かな事は無いと思います。
私たちが使う「亡くなる」という意味は「消えていく」ことを意味します。
「亡くなる」とは本当に無くなります。神の愛と共に信じ生きるクリスチャンには、亡くなる事など無いのです。生きているのです。

科学の法則には質量保存の法則が有ります。これは科学です。
例え、紙に火をつけると燃えます。
でも科学的には紙の物質が他の元素、物質に代わって行って無くなるのではないと言うのです。

人間は死んでも無くなるのではなく人間の命は消えて行くのではなく何時も存在していきます。

恵み深い神と共に居るのか、
神から離れたところで神の愛を知らずにいるのか、の問いに答えなければならないのです。

では質問です。19節のイエスの約束に従って皆さんはイエスを見ているのですか。

この答えは聖書から見つけましょう。

1)皆さんは15節の言葉のように神を愛しているのか。
神を愛するためにイエスの掟の一番大事な事である隣びとを愛しているのですか。
そうすれば何時も神様を見ているはずです。

2)17節の言葉に有るように霊を見ようと知ろうとしていますか。
この質問が難しく思うならクリスチャンとして神のみ言葉に導きに従って生きたいと思って歩んでいますか。

319節のみ言葉によると世に属していればイエスを見る事は出来ないと明確に記されています。

19節の御言葉を読んで見てください。
『世は見なくなるが、あなたがたは私を見る、なぜなら生きているからです』と記されています。

本当に生きておられる方ですか。
先月アジア学院サンデーの時に主は生きておられると楽しく讃美しました。

生きておられるなら今も出会うことが出来るのです。

もしかしたらその時は気づけてなかったとしても、
時間が立ち振りかえて見るとその時こそ神の業、神の導きであることに気づかされます。

時々讃美の時に、心に温かい平安を感じます。
時には祈っていた時に経験出来なかった恵みに触れる時もあります。
時には説教の御言葉として自分の思いに神様の導きを感じます。

時には突然聖書の御言葉を思い出します。
時には讃美を知らないうちにくちずさみながら、心から神の平和を実感します。

モーセは神様にあなたの栄光を記して下さいと願い祈ります。
出エジプト記
33:18節。20節に神はモーセにあなたは私の顔を見る事は出来ない、
人は私を見て、なお生きていることは出来ないと答えます。
けれども
23節にはあなたは私の後ろを見るが、私の顔は見えない、
と書かれています。後ろを見せるとは過ぎ去った時に気付く神の業を言うのではないかと思います。

聖霊は私たちの助け手として、イエスの恵みとして与えられた、生きておられる神です。

聖霊と導きによって、いつでも神のを見、味わう恵みの信仰の生活をお勧めいたします。