2019818日 西那須野教会メッセージ  大下正人

聖書 使徒言行録142128  説教「神の国とは」

 8月の礼拝は平和について考えてきました。
私たちは、この世で生きている限り、様々なことが起こります。
それは自分の生活のことであったり、社会情勢であったり、
人間関係であったり、環境問題であったり、本当に数多くのことがあります。
その中で平和ということを考える時に、
ただ一概に暴力がないのが平和と位置づけすることは難しいのです。
なぜならば、新約聖書の時代ローマ帝国によるパックスロマーナと呼ばれた
いわゆる武力による周辺諸民族の鎮圧と隷属によって成り立つ平和が実際にありました。
今の時代もそうかもしれません。圧倒的軍事力によって支配された平和なのかもしれないのです。
あくまでも私たちが求める平和と違うのであります。

私たちが求める平和とは、人間や国家が支配するものではありません。
神様の支配、つまり神様の愛による平和であります。
それは、マタイによる福音書によれば天の国と訳され、
その他では神の国と訳されています。
旧約聖書においては、王国や王権といった表現で書かれています。
では具体的に神の国とはどのような意味があるのでしょうか?
聖書においては、何よりもまずイエス様が私たちに与えられたことが
私たちの希望であります。
そしてイエス様が何よりも大事にしてこられたのが
権力を持った者ではなく、力ない者、貧しい者、こども、
高齢者、社会的に苦しんでいる人に寄り添われたということです。
そのような者に神の国に入る優先権を与えられました。
また、神の国の到来は、もうすでに来ているのかという問いに対しては、
すでに来ていると書かれているところもありますが、
まだ来ていないと書かれた場所もあるのです。
つまりはっきりと神の国とは何か、いつ来るのかということを
具体的に弟子たちも理解しませんでした。
しかしイエス様の言葉や行動に神の国の定義がしっかりと示されているのです。

まず神の国の考え方は、人間的な上下関係は存在しないということであります。
それは男性であろうが、女性であろうが、こどもであろうが、
老人であろうが関係ないのです。ただ一人支配するのは神様しかいないのです。
国々という概念もありません。それは、なぜか、神様が管理してくださるからです。
人間が行う管理は、狭く、小さく、浅いものですが、
神様の恵みはどこよりも広く、大きく、深いものだからです。
神様の恵みあふれる土地はどこにでも広がっているからです。
誰が神の国に入る対象であるか?その問いに関して、誰でも入ることが出来ます。
しかしその入り口はある人には困難な道のりです。ある人というのは、
お金持ちや権力を持っている人たちなのであります。
この世的に優遇されてきた人は、後に並び後から来た人、
この世で苦しんで来られた方が先に入るのです。

では、どんな所であるか?という問いには、神様が創られた土地、
草花が生い茂り、様々なところに食べ物があり、
羊がオオカミの群れを行き交うような場所です。
しかしその場所はどこかと申しますと、今の体を持っていてはいけない場所であります。
私たちが現在の体に執着している限り、神の国を見ることもできないのです。
ではいつ頃神の国は来ますか?と問いには先ほど言いましたように
聖書ではもう来たとする個所もあれば、まだ来ていないとする個所もあるため断言はできません。
お天気の
NEWSのように「今日は、どこに神様の国が現れますから、お出掛け下さい」
そんな神様のアナウンスがあればいいなとは思いますが、
でも神様は私たちの時間で動いているわけではありませんから、
いつ来るかわからないわけです。じゃあ、どうすればよいでしょうか?

それでは、本日の聖書個所を読んでみましょう。
使徒言行録
142122節です。二人はこの町で福音を告げ知らせ、
多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと
引き返しながら、弟子たちを力づけ、「私たちが神の国に入るには、
多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、
信仰にとどまるように励ましたと書かれています。
まず神の国に入るためには多くの苦しみを経なければならないようです。
私たちがこの世で生きるということは、
喜びだけではありません。悲しみもあります。苦しみもあります。
すべては神様から与えてくださるものですから、
その業を受けることが大事です。
人は苦しいことや悲しいことを乗り越えていく力は
神様から与えられて備わっているのです。それは誰もが持っていることです。

しかしいくら耐え忍んでも耐え切れないことも沢山あるでしょう。
私たちは命を失っては、この世では生活できないからです。
だから苦しい時には周りを見渡してほしいのです。
立ち止まったときにそのことから逃げても大丈夫なように
新たな道を必ず備えてくださるのが神様ですから、
神様に祈っていくとよいでしょう。逆に神様なんてと思ってしまうと
途端に神様が見えなくなりますので、辛抱強く忍耐の心を持ちたいものです。
また神様の国を待ち望んでいるのは自分だけではないのです。
多くの方が望んでおられます。信仰の友が悩み苦しんでいる時には、
ぜひ話を聞いてあげてほしいと思います。また一緒に祈りをささげてほしいのです。
わたしたちは聖書から多くのことを学びますが、
多くの方は神様の存在すら知らない者もいます。
聖書の言葉を拒否する者もいるかもしれません。
そんな時は、その人を愛し親身になって、話に耳を傾けましょう。
それはイエス様にもみられる行為です。その人の叫ぶ声を聞き、
「何をしてほしいのか」と寄り添う姿は、
私たちが参考にすることができるのではないでしょうか。

もちろん私たちはその願いを聞き、
そのことに対して何かをすることができるかと問われますと、
「私にはできません。しかし神様ならできます」と胸を張って公言するしかないのです。
もしも神様の国へのパスポートをいただけるのであれば、確認したいです。
いつどこで神様の国に行くことができるのか?でもそれはかなわないことでしょう。
しかし私たちには聖書という確証があります。
目には見えませんが私たちに声をかけてくださる神様が
私たちをいつも励ましてくださいます。必ず私たちを神様の国へと誘ってくださるのです。
そのことがイエス様の証であり、神様の約束なのです。
そのためにも私たちは祈ることが必要なのです。
何度も何度も祈ることが必要なのです。
御国が来ますようにと心から祈る言葉を神様は待っておられるのです。
それでは皆さんに
1曲ご紹介したいと思います。
夕礼拝で歌うゴスペルソングですが、「神の国と神の義を」という曲です。
それでは
1回歌ってみたいと思います。繰り返して1番だけ歌いますので、もし歌える方は一緒に歌いましょう。

♪神の国と神の義をまずもとめなさい。

そうすればあたえられる ハレールハレルーヤ

ハレルヤ ハレル―ヤ 

ハレルヤ  ハレ-ルハレルヤ♪

それでは お祈りいたします。
主なる神様感謝いたします。今日は、神の国について学ぶことができました。
いま私たちの住んでいるところは力による平和です。
しかしあまりにその力に頼ってしまうと
そのバランスが崩れたとき戦争を起こしかねない状況であることを悔い改めます。
私たちは祈ります。どうぞ武力の平和を求めるのではなく、
神様の平和が訪れますように、どうぞ武力を大事にする者たちの心が
あなたによって変えられ、あなたの平和を目指していくことができますように
人々の心から力を取り去ってください。
私たちはあなたの国を待ち望みます。
どうぞあなたの計画が速やかになされますように。
戦争で苦しむ兄弟姉妹たちにあなたの慰めと、
励ましと、慈しみをお与えください。そして私たちが愛の心をもって、
あなたの言葉を伝えるものとさせてください。
すべてのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン