2019324日西那須野教会主日礼拝 大下正人

説教題「御心のままに」聖書ルカによる福音書223946

 弟子たちは、宣教者であるヨハネの弟子たちが祈っているのを見て、
自分たちも祈りたいと願い、主の祈りを教えてもらいました。
またイエス様ご自身も祈りが大事であることを自ら実践して行い、
弟子たちに教えていました。主の祈りのように、心を揃えて、
一つ一つの意味をしっかりと捉えていかなければならないのです。
もしも主の祈りを呪文のように祈るのであれば、
イエス様が折角教えてくださった祈りが無駄になってしまうのです。
よくあることなのですが、ついつい早口になってしまうこともあり得るのです。
わたしもある教会で緊張していたためか隣の人の口調に合わせて、
競い合うように主の祈りが早くなってしまいました。
その礼拝の後、ある方に「先生の主の祈りは早くてついていけません。」
その何気ない一言を言われた時、ハッとさせられました。説教でもそうですが、
言葉一つ一つを神様からいただいた大切なものですからに、
じっくり味わっていかなければならないと反省させられました。
今、西那須野教会では、折角プロジェクターで投影しておりますから、
字をしっかり読んで、ゆっくり噛みしめて祈りましょう。
またリードする司会者も気を付けなければなりません。
そうすれば主の祈りがもっと豊かに感じることが出来るでしょう。

然し祈り本来の意味は、神様と自分の対話です。
まずは神様が与えて下さるものを感謝する。次に神様に懺悔し、
悔い改めをする。そして最後に神様に願い求めるのです。
時折、イエス様は、話を聞きに来る人や弟子たちから離れて
神様との対話を求めて山に向かいます。私たちもそうですよね。
神様を求める時に雑念や騒音があるとなかなか集中できないことがあります。
一つのことに集中したいと思っていてもなかなか出来ません。
この世の様々な思い患いは、次々とやってくるのです。
たとえそれが自分の思いと違っていたとしても。
かといって時間が取れないわけではないのです。
むしろ積極的に神様が与えてくださる時間を有効に使えば、
祈る時間も作り出すことが出来るのです。

本日の聖書を振り返ってみましょう。このルカによる福音書では、
オリーブ山としか書かれていませんが、マタイによる福音書マルコによる福音書を見ると、
ゲッセマネと記されています。更にヨハネによる福音書ではもう少し具体的に
キドロンの谷の向こうへ出ていかれた。そこには園があり、
イエスは弟子たちとその中に入られた。と書かれております。

つまりキドロン地方の谷にあるオリーブ山のゲッセマネが
祈る場所だったわけであります。ではキドロンには何があるかと申しますと
神殿があります。その神殿では過ぎ越しの祭りの捧げ物として、
多くの生贄の動物が殺され、その川の水は、大量の血が流されていました。
一方でゲッセマネは、どういう場所かと申しますと絞り場
つまりオリーブ油を絞り出すところであります。
それでは、ルカやほかの福音書も先ほども書いたように
キドロン地方のオリーブ山のゲッセマネと書けば、わかりやすいのですが、
ルカはあえてそうはしなかったのです。それはなぜでしょうか?
それはある思いがありました。ルカの思いは、
祈りの場所を小高い山として表現したかったのだと思います。
ノアの箱舟が到着したのは、アララト山。モーセが十戒を受け取るときは、
シナイ山。イエス様が
12人を選ぶときに祈ったのも山でした。
またイエス様の姿が変わるときに祈った場所も山だったのです。
つまり神様に祈る場所は、神様により近いところで祈ることをルカは、
強調したいのかもしれません。ですからキドロンでもなく、
ゲッセマネでもなく、オリーブ山にしたかったのです。

 次に、いつものように、いつもの場所で祈るのです。
そしてついてきた弟子たちから離れる際にイエス様は
「誘惑に陥らないように祈りなさい」と語られました。
いつものようにこれは毎晩祈っていたということかもしれません。
また、いつもの場所でとされているのは、
この後に続く箇所が大きく関係していきます。
つまりイエス様の弟子ならばイエス様がいつ、
どこで祈っているかを知っているからです。
その日は、弟子たちのところから更に奥深い石が届く範囲ですから
4050メートルぐらいかもしれません。そのぐらい距離が離れていると
どんなことを祈っているのかわかりません。
もしかしたら聞こえたかもしれませんが、
とにかく弟子たちから離れて集中して神様にひざまずいて祈りました。
その祈りの言葉とは「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。
しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。
この杯は神様が与えてくださる苦しみを指します。
本当は、この神様から受ける苦しみを取り除きたい、
行いたくないと思ったのかもしれません。
しかしイエス様は御心のままにと祈るわけです。
それによって神様の意思を受け取ろうとするイエス様の祈りは、
天から天使を呼びよせ、イエス様に力を与え、
苦しみながら切に祈るのです。その様子は、汗が血のように滴り落ちるほど
真剣に必死な祈りであったことが伝わります。

私たちもお祈りをします。しかし汗が滴り、
落ちるほど真剣な祈りをしたことがあるでしょうか?
自分の思っていることを神様に伝えているでしょうか?
神様が与えようとしているものに対して
神様の御心のままにと祈っているでしょうか?
先ほど上げた主の祈り、つまりみんなで行う公の祈りでは、
不十分な気が致します。自分自身の思いを
神様に伝えていない気がするのです。
主の祈りはあくまでも私たちの足りない言葉を補足し、
心を一つにしていく一致の意味があるのではないでしょうか?
しかし個人の祈りは人に知られたくないこともあるでしょう。
家庭のことや個人的なことも全てみんなの前で祈ることが
出来る人もいるとは思いますが、自分としては、出来ないですね。
それは国柄によっても違うし、教会によっても、
考え方はそれぞれで違うと思います。では、公の前で祈る時はどうでしょうか?
礼拝の時は司会者が代表でお祈りいたしますが、
自分がお祈りして欲しいことと違うことがあります。
それぞれの問題意識が違うからです。ではどうすればよいでしょうか?
具体的には個人の祈りと公な祈りと主の祈りはどれも大切ではありますが、
別物と考えてもよいのかもしれません。
公の祈りは、どちらかというと個人の思いではなく、
社会的な祈りだと思うのです。もちろん本人が願い、祈ってくださいと言われれば
祈ることも可能でしょう。しかし人に知られたくないと感じる人だっているのです。
だからこそ個人で祈る祈りは、より具体的に祈ることができるのです。
しかしこうしてください、あーしてくださいと願えば何でもお出来になる方ですが、
神様が与えたい物と人間が期待するものは違うことを理解しなければならないのです。
神様の御心のままに、受け止め、御心のままに与えてくださるものに感謝し、
御心のままに行うこと、このことを実践してこられたイエス様のことを
私たちは共に学んで祈っていきたいと思います。

お祈りいたします。

ご在天の神様感謝いたします。あなたは私たちを御心のままに
生かしてくださっていることを感謝いたします。
私たちもあなたからいただいたものを受け止めていくことが
できますように導いてください。すべて私たちが正しいのではなく、
神様の判断が正しいと認識していくことができますように。
あなたのことを信頼することができますようにしてください。
この
1週間もあなたの守りの中過ごすことができますように。
全てを御心のままに行ってください。あなたを信頼します。
このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。
アーメン