2019414日 西那須野教会主日礼拝メッセージ

「剣を鞘に納めなさい」マタイによる福音書264756 

本日は、3つ場面を通じて神様のみことばに触れていきましょう。
まず始めに、イエス様が、エルサレムに入城した日、棕櫚の主日の場面です。
イエス様が町に入る前に弟子たちを遣わし、「向こうの村に行きなさい。するとすぐ、
ロバがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて引いてきなさい。
もし誰かに見つかったら「主がお入り用なのです」と言いなさい。すぐ渡してくれる」
こう弟子たちに告げました。このことは、神様が預言者に伝えた神様の計画を
実現するためでありました。

しかし本来は、人を乗せるのが目的であるならば馬を用います。実際に馬は、
ロバよりも走るのに早く、移動手段として使われていました。
また昔は力を表す単位として、馬の力と書いて「ばりき」と言いました。
皆さんは馬のイメージをどのように思い描いているでしょうか?
私が描くイメージは、馬自体は何も悪くはないですし、
神様が創られた美しい動物です。しかし人間はどのように馬を使ったでしょう。
人間は、いつの時代でもどんな場所でも馬を戦争の道具として使いました。
ですから馬は私にとって戦争をイメージさせるものであります。
これは極端な考えかもしれません。もし、イエス様がエルサレム入城の際、
馬を使えばエルサレム入城の意味が全然違ってしまうのです。だからこそ馬ではなく、
神様は、ロバを選ばれました。しかも子ロバなのです。力ある大人ではなく、
まだ荷物を載せたことのないこどもを選択なさったのです。
その子ロバにまたがってエルサレム入城するイエス様、
その様子を見てエルサレムの人たちはどのような心で迎えたでしょうか?
馬ではなく、ロバに乗ってくる様子は、滑稽に見えたことでしょう。
そこにはきっと笑顔があったのではないでしょうか?もしかしたら、
恐れなど何もなかったのかもしれません。そして叫ぶのです。
「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ」ある者は自分の服を道に敷き、
ある者は木の枝を切って道に敷きました。弟子たちは、その様子を見て、
心が躍ったのではないでしょうか?ロバの背中で揺れるイエス様を見ながら
最初は恥ずかしいと思ったのかもしれません。しかし次第に誇らしげに一緒に堂々と
胸を張って入城したのではないのでしょうか?

エルサレムには多くの祭司や律法学者がおりました。
彼らもきっとこの光景を目の当たりにしたことでしょう。
どう思ったでしょうか?民衆がイエス様のエルサレムに入るのを歓迎した様子を見て、
かなり動揺を覚えたのではないでしょうか?そして感情的に苛立ちもしたでしょう?
その結果祭司、律法学者は、イエス様を捕らえようと企てましたが、
民衆の目があるためになかなか行動に移すことができませんでした。
 イエス様がベタニアにおられた時、ある事が起きました。一人の女性が
食事をしているイエス様のもとに近づき、高価な香油が入った石膏の壺を割り、
頭に注ぎました。それを見て弟子たちは憤慨するのです。
「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」
そこでイエス様は、弟子たちの心を知って言われるのです。「なぜ、この人を困らせるのか。
私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、
私はいつも一緒にいるわけではない。この人は私の体に香油を注いで、
私を葬る準備をしてくれたのだ」その言葉を受けて、弟子の一人、
ユダは祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、
いくらくれますか?」と聞き、銀貨
30枚で取引してしまうのです。
その時からユダはイエス様を引き渡す機会を狙っておりました。
そしていよいよその時が訪れるのです。

イエス様が祈り終え、弟子たちと話をしている最中にユダがイエス様にキスをいたしました。
その愛の挨拶であるキスを裏切りの合図にしたユダの心は、
お金に捕らわれ、神様を考えることもできなかったのではないでしょうか?
そのイエス様が話をしていた場所はゲッセマネの森の中でありましたが、
現在のように街燈もなかったことでしょう。夜ですからイエス様に従う民衆もいません。
その合図を受け、剣や棒を持っていた者が近づいた時、
イエス様を助けようと一緒にいた者が手を伸ばして剣を抜き、片方の耳を切り落とすのです。
そこでイエス様は、「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われるのです。
続けてこうも言われたのです。私が父にお願いすれば、
父は
12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると
書かれてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」そしてその時、群衆にこう告げるのです。
「私は毎日、神殿の境内に座っていたのに、あなたたちは私を捕らえなかった。
このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」
つまり神様の計画によってなされたのであって、ユダの裏切りや剣や棒によって
捕らわれたのではないことをイエス様が語っています。

ここで本日のイエス様の言葉と行動を思い起こしてみましょう。
イエス様は、神様の与えられた預言
(マタイによる福音書215)
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前の所においでになる、
柔和な方で、ロバに乗り、荷を追うロバの子、子ロバに乗って」に従って
馬ではなく、ロバしかも荷物の載せたことのないこどもに乗られて
エルサレムに入城したこと、その行為に民衆は柔和な気持ちを持って、
柔和なイエス様を歓迎したこと、そして女性がイエス様をもてなす心をもって
油を注ぐ行為に憤慨を覚えた弟子たちに対して、この行為の意味を
『なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。
貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、
私はいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、
わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、
この福音が述べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として
語り伝えられるだろう』と自分を葬る日が近いことを伝え、
それによってその油を注いだ行為は、記念として語り伝えられるであろうと
教えてくださいました。お金は、必要であるが、それに執着しない生き方は、
弟子の中で会計担当のユダの気持ちを信頼する気持ちから裏切りの気持ちを
植え付けました。しかしそのユダの思いも神様の計画を実行するためには
必要なことでありました。そしてイエス様がゲッセマネで捕まるときも
弟子の一人がイエス様を守ろうとした時に、「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
(マタイによる福音書2652)と今後の弟子たちの活動にも大きく変化を与えました。
つまり剣を持ってこの世のものと相対すれば剣によって滅ぼされてしまうことを示唆します。
そして群衆にも「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕えに来たのか。
わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちは私を捕らえなかった。
このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」
神様の与えられた預言つまり聖書のみことばが実現のするために
イエス様を捕らえることができたのです。決して暴力でイエス様を支配することが
できないことを神様御自身が示されたのです。この言葉は私たちにも言えることです。
お金に執着しない生き方、武力に頼らない生き方、そして柔和な心で御言葉に聞き従い、
信頼する生き方を神様はイエス様を通して、私たちに示してくださるのです。

お祈りいたしましょう。

ご在天の主なる神様、感謝いたします。あなたはイエス様を私たちのもとに送り、
神様に従う生き方がいかに大切であるかを教えてくださったことを
感謝いたします。私たちは子ロバのような存在です。
どうぞあなたの御用をなすために私を用いてください。私たちは、
お金に執着し、武力に頼ろうとする愚かな者であることをお許しください。
もっともっとあなたを信頼し、あなたが与えてくださる御言葉に従う歩みを
成すことが出来ます様に私たちを導いてください。どうぞあなたを知らない人たちにも
あなたが愛を与えてくださり、あなたを知るチャンスが与えられますように。
そしてこの受難週の
1週間もお守りください。次週のイースターに向けて心の準備、
体の準備をさせてください。全てのことを感謝して主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン