2019512日 西那須野教会 主日礼拝メッセージ 大下 正人

聖書 フィリピの信徒への手紙2111

説教 「イエス・キリストは主である」

私は時折、疑問を感じることがあります。その疑問は、本当に自分は神様を信じているのだろうか?
本当にイエス・キリストは主であると告白しているかということであります。

「牧師だから強い意志をもって信仰によって生きているのだろう」、「『イエス様が主である』と
礼拝で堂々と語っているのだから、そんなことは絶対ありえない」と思っている方もいるかもしれませんが、
牧師だって迷いもするし、不安になることもあります。牧師だからこそ悩み、
信仰の振り子にいつも揺られています。どんなに正しいことを選択しても不安になるのです。
だからこそ一つ一つの行いに対してこれは、神様が与えてくださることなのか、
これは神様の思いに反することなのか、まず考えます。
実際に行おうとしている事柄が人間的に素晴らしいと思える計画であっても、
その問題の大小に限らず全ての事に対して私は祈ります。
その祈りの際に私がいつも心がけていることは、自分の思いや願いが強くならないように祈っています。
もし自分の思いが強ければどうなるでしょうか?こうでなければならないという考えが生まれてくるのです。
むしろ自分が期待していた結果と違う時、人は落胆し、その結果に近づけようと努力します。
無理をした結果、かえって悪い方向に状況が変わってしまうのです。
むしろその状況を受け入れていく事によって神様が示そうとする道に近づくのだと考えます。

神様に従うということは、神様が与えて下さるものに対して受け入れ従っていくという事なのです。
イエス様も、神様の御声に従い、それも十字架の死に至るまで従順でした。
そこには神様への絶対的な信頼があったからなのです。これは結果論かもしれませんが、
もしもその行おうとしている事柄が神様の御心であれば、どんどん計画が進んでいく事でしょう。
しかし御心でなければ計画そのものがなくなってしまい、はじめに戻ってしまうかもしれません。
神様の返答は、早い時もあれば遅い時もあるのです。その神様の返答を待てる人間もいれば、
待てない人間もいるのです。わたしは、どちらかというとのんびりしています。
だから周囲には、何故すぐ決断できないのか、どうしてすぐ実行しないのかと感じさせてしまったら、
ごめんなさい。謝ります。
私は決断力がありません。実行力がありません。たくさんの失敗もするし、迷惑もかけてしまいます。
知恵もありません。忘れっぽい人間です。だからこそ神様が必要なのです。
神様は、必要なものをお与えになるのです。神様の計画を行う時に知恵や力や配慮がたらない時には、
その能力を持つ人を送ってくださいますし、与えてもくださるのです。
もしも満ち足りているのであれば、取り除いてもくださるのです。

つまり神様はどんな状況下であろうともわたしたちを神様の道に向けさせ、
私たちに最善かつ最速の方法を提供して下さるのです。時には、つらい時もあるでしょう。
苦しいと感じることもあるでしょう。その辛い時、苦しいことも含めて私たちの心を神様は
全てご存じであられるのです。ですから、不平不満を人にぶつけてはならないのです。
むしろ積極的に神様に私たちは素直な気持ちになって、想いを伝えていかなければならないのです。

皆さんは、今どんな気分ですか?眠いですか?おなかがすいていませんか?和やかですか?
イライラしていませんか?私たちは生身の人間です。どんなに強い体を持っていても、
どんなに心がしっかりしていても疲れることがあります。体が疲れていれば、睡眠をとり、
栄養を摂取すれば回復するかもしれません。しかし心がどうしようもなく疲れてしまった時、
皆さんはどうするでしょうか?どこかに気晴らしに出かけるのもいいでしょう。
音楽を聴くのもいいでしょう。大好きな物に没頭するのも良いでしょう。
心が回復すれば、体も元気になります。しかし心と身体が疲れていると神様の良い業を行うことが出来ません。
神様は、私たちにこう言われています。聖書のある方は、マタイによる福音書
112830節をご覧ください。
新約聖書の
21ページになります。それではお読みします。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
私は柔和で謙遜なものだから、私の軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
とこのように書かれています。
大切なことですからもう一度お読みしますね。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。私は柔和で謙遜なものだから、私の軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
どうですか?神様は誰でもとおっしゃいました。誰でも神様は迎える準備があるのです。
ですから遠慮する必要はありません。俺なんて、私なんてと謙遜する必要は全くないのです。
心苦しい時に、その苦しさを開放して下さるのが神様だからです。
そして柔和で謙遜であると自分を表現されております。私たちもそうですよね、
怖い顔の人よりも優しい顔の人の所に行きませんか?
怒っている心よりも穏やかな心の人のそばが安らぎますよね。
それは大人であっても、こどもであっても、おじいさん、おばあさんであっても、
男性であっても、女性であっても、それこそ生き物全ては、優しい人や場所を求めているのではないでしょうか?
 今日与えられた御言葉に私たちが生きるヒントが含まれているのではないでしょうか?

それでは本日の聖書を開きましょう。フィリピの信徒への手紙21節~11節です。
本日のフィリピの信徒への手紙
215節は、2019年度の西那須野教会の主題聖句です。
この御言葉は、潘先生と相談して選びました。私たちが今何をしなければならないのだろうか?
西那須野教会が130周年を迎えるにあたり、どんなことをこれからしていくべきなのか、
また新しい人を迎えるためにはどんな心で迎えたらよいだろうか?
考えた結果この聖句を選ばせていただきました。わたしたちに限らず、
どの教会もどうしたら地域の方が教会に足を運んでくれるだろうか?
何をしたら神様を、イエス様を伝えていけるだろうか?
どうしたら世界の人たちが神様の愛を実践してもらえるだろうか?と試行錯誤します。
しかしながらなかなか自分たちの思いが強いばかりで実現に至っていません。
キリスト教は、世界においては、
3大宗教と呼ばれているぐらい大きな宗教なのですが、
日本では、クリスチャン人口は、
1%にも満たない現実が長く続いています。
その理由として考えられるのが、日本には
800万の神がいるとされています。
神木、御神水、神の池、山の神、海の神、ありとあらゆる物を神と祀りたてています。
そのため、それぞれの都市や町、村に大きな神社があるのです。
だからと言って信心深いわけではないのです。その行事ごと、季節ごとにお祭りがあり、
そこには出店が立ち並び賑わいがあるから出かけたりもします。
神様にお参りに行く思いを持っている方もいらっしゃいますが、全員がそうではないのです。
珍しい建造物や世界遺産になったということで観光客が訪れるケースも増えてまいりました。
しかし本来の意味から外れてしまいますと、どうなってしまうかということです。
日本には、本末転倒という言葉があります。
本来あるべきものからはずれてしまうと最後には転んで倒れてしまうということです。

キリストの教会を訪れる意味は何でしょうか?そこに何を求めてくるでしょうか?
人が、教会に集まる理由は、何でしょうか?それぞれ理由が違うかもしれません。
わたしの場合は、聖書をもっと知りたいです。神様に愛されて生活したいです。
そしてイエス様が教えてくださる愛を実生活につなげて、実践したいという思いから
牧師として教会につながっています。
 もしもですが、礼拝を行わない教会は教会といえるでしょうか?
聖書から学ばない教会はキリスト教と呼べるでしょうか?
イエス様に倣っていかなければ本当の愛を実践することは難しいのです
。一人一人がもう一度イエス様を信じることになったきっかけ、原点に立ち帰るべきなのではないでしょうか?
教会は、愛と平和を実践する場所です。いがみ合ったり、恨んだり、蔑んでいる場面を行っていたとするならば、
初めて来た人は「エー教会なのに」と躓きを与えてしまうかもしれません。もう一度自分の心に問いかけましょう。
自分の態度や言葉遣いはどうですか?相手に対する気持ちはどうですか?神様とどう向き合っていますか?
それでは皆さんとご一緒にフィリピの信徒への手紙
21~4節を声に出して読みましょう。
そこで、あなた方にいくらかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、
それに慈しみや憐みの心があるなら同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、
私の喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、
互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
はいありがとうございます。もしこのことを実践できるならば、神様は必要に応じて様々なものを与えてくださるのです。
その時にはぜひ大きな声で叫んでください。「イエス・キリストは主である」と。

お祈りいたします。天の父なる神様、感謝いたします。
今日この日あなたの御言葉を与えてくださったことを、
また私たちがその御言葉によって大切なことを思い出せたことを感謝いたします。
私たちは色々な思いを持って暮らしています。皆が同じ感覚ではありません。
時には怒り、時には相手を悲しませてしまう自分勝手の心を懺悔いたします。
あなたは私たちが自分を高くする時低くしてくださる方です。
どうぞ私たちの高い誇りを低くしてください。どうぞ隣の人に仕え、あなたの愛を実践させてください。
全てにおいてあなたを信頼して歩んでいくことができますように、
あなたに感謝していくことができますように導いてください。
あなたが送り出してくださる隣人をあなたの愛を持って迎えていくことが出来ます様にあなたの愛を与えてください。
この
1週間もあなたに守られて無事に過ごすことができますように。
このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン