聖書 ヨハネによる福音書12:27~36

説教題「すべての人を引き寄せよう」

 私たちの生活の中にはいろいろな音があります。
しかしすべてが同じように聞こえるわけではありません。
脳に伝わる信号は様々です。だからすべての者が神様の声を聞きわけられる訳ではありません。
本日の与えられた聖書を見てみますと、
2728節では「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。
『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。
父よ、御名の栄光を現してください」この祈りは、イエス様が十字架につけられる前の祈りです。
イエス様は、どう祈ろうか迷っていたのではないでしょうか?始めの言葉では、
自分を救ってくださいと願いましたが神様はお答えになりませんでした。
しかし御名の栄光を現してくださいと祈るとその祈りには答えてくださったのです。

私たちも自分勝手な祈りは、神様は答えてくださらないのです。
神様の御心に叶う祈りにはすぐに対応してくださるのです。私たちもどちらが正しいのか、
どちらが神様の業なのか迷う時があります。本日の聖書のようにすぐに答えてくだされば
問題ないのかもしれません。また神様が示されていることであっても、人間の思いによって、
途中で変わってしまうこともありえます。人間的には良いことであっても
神様がそのことに対してどのようにお考えになるかわからないのです。
では、どうすればよいでしょうか?それは私たちの心を神様に向けていくことです。
神様に心を向けていくということは、ほかの思いを捨て去り、
神様に心を集中していくということであります。色々な雑念を捨て去らなければなりません。   

もう一つの方法は、神様の声を聴き分けるようにしていかなければならないのです。
ヨハネによる福音書
10118節の羊のたとえを話されました。
イエス様は、ヒツジの門であり、良い羊飼いであると語っております。
その中で特に
1416節に目を向けてみましょう。
私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。
それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。
私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。
その羊も導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。
こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる。と書かれております。
つまり私たちは本質的に神様の声を聞き分ける力がすでに神様から与えられているのです。
しかし本日の聖書では、ある者には雷の音に聞こえ、またある者には、
天使が話しかけたと様々に聞こえたわけでありますが、それはなぜでしょうか?
それは私たちが本当に神様に心を開いた時にイエス様のように神様の声として
認識できるのではないでしょうか?私たちが自分で心開かなければ、
神様のメッセージを受け取ることができない気がいたします。
イエス様も自分が神様の存在を知っているからこそ、その声に聞き従うことができるのです。

そしてイエス様はこうも言われました。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、
あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時、今この支配者が追放される。
私は地上から引き上げる時、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」このように語られました。
今現在神様の栄光を現していますが、再び神様の栄光を現す時、神様はこの世を裁かれ、
この世の支配者を追放し、そして地上から引き上げる時に
すべての人を神様のもとへと引き寄せられるのです。わたしたちは神様が創造された世界に目を留め、
美しいと感じるように、その神様の造形に自然に引き寄せられるのと同じで自然の摂理に従い
私たちは神様の恵みに知らず知らずのうちに引き寄せられていくのです。これが神様の計画であります。
神様の豊かな恵みは、心和ませ、私たちの争いの心を奪い取ってくださるのです。
しかし一方で、世界を見渡すとどうでしょうか?まだまだ人間には様々な争いがあります。
私利私欲のためにお金であったり、権力であったり、むさぼる心がいまだに消えません。
神様が一人一人を愛して、自分の似姿に創られたにもかかわらず、差別や妬みが消えません。
そして国の指導者同士が奪い合い、牽制し疑う心を未だに持っています。
これではいつになっても神様の声を聴くことができないのです。
もしも神様が語り掛けてくださっていても、別の音で聞こえたとすれば、
私たちはその神様の声には気づかないのです。では私たちは神様の声を聴くことができないのでしょうか?
いえそんなことはありません。むしろ神様の声は、私たちが考えるよりはるかに豊かです。
音で感じるものもあれば、目で見て感じるものあれば、ほかの人の口を通して言われる言葉もあります、
においで神様のことを伝えようと神様は考えているかもしれません。本当に様々な方法を持って、
私たちを神様のもとに引き寄せようとしておられるのです。

しかし私たちが理解するように様々な方法を神様が用いても、
私たちが鈍感であれば神様に気づくことはできないのです。それはなぜか?
私たちが神様以外のものに目を向けているからです。神様以外のものに気をとられてしまうと、
いつのまにか神様の存在を忘れてしまうのです。私たち人間の歴史はその繰り返しです。
神様から離れてしまうきっかけは、神様が「これは約束ですから、守ってください。」と
私たちに投げかけられた時に、「初めは守りましょう。」と思っていても、
「このぐらいなら大丈夫でしょう」と自己判断してしまうことにあります。
しかしここに落とし穴があるのです。その穴は、初めの内は小さな穴かもしれません。
しかしそこに自分の思いが集中するとどうなるでしょうか?その穴は広がり、やがては落ちてしまうのです。
その前に必ず神様は、わたしたちに必ずアクションを起こします。それが神様の業です。
その時に気づくことが出来るのであれば、問題ないのかもしれません。しかし神様の業に気づくことなく、
その穴に落ちてしまったら、私たちは終わりなのでしょうか?そうではありません。
確かに人間的には裁かれて終わりかもしれません。しかし神様は違うのです。
神様はあきらめることはしないのです。人間がさじを投げてしまうことであっても、
決して私たちから逃げないし、私たちをその罪から救って私たちを自分のもとに引き寄せられるのです。
それはなぜでしょうか?それは私たちを愛しておられるからです。だからどんな時も、どんな場所でも、
どんな人であっても神様は決して見放さないのです。
だからこそ私たちは今も生きているし、神様に愛されているのです。
しかし、私たちがこの世で生きている限り、様々な困難に出会うでしょう。
様々な誘惑が私たちを襲うでしょう。しかし今しばらくあなたたちとともにいるといってくださったのです。
私たちが見上げれば、必ずそばにおられるのです。
今、神様が私たちと歩んでくださる間に暗い闇に向かうのではなく、光のほうに心を向けていきましょう。
光のほうを見れば、必ずそこには神様の愛と恵みがあり、私たちを救ってくださるのです。

 

お祈りいたします。神様、感謝いたします。あなたは私たちを愛して、
私たちをいつも力づけてくださっていることを。しかし私たちは罪深い者であることを懺悔いたします。
私たちはあなたが様々な方法で語りかけてくださることを無視して、
違う方向ばかり見てしまう愚かなものであることを。しかしあなたは決してあきらめない方です。
あなたの忍耐深さを感謝いたします。どうぞいつまでもそのあきらめない気持ちを持って、
私たちを顧みてください。私たちがその間違いに早く気づくことができますように。
世界の人があなたを見上げることができますように導いてください。
そして何よりもあなたの愛を感じて、感謝して歩むことができますようにしてください。
私たちは心入れ替えてあなたの道を歩みます。どうぞこの1週間を支えてください。
すべてのことを感謝して、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン