聖書 ローマの信徒への手紙12921

メッセージ「善をもって」

 人間はこの地球上のあらゆるところに住んでいます。
暑い気候のところもあれば、万年雪のあるところ、
ジャングルに生息するものもいれば、砂漠に住む者もいます。
それぞれ住む場所は違うかもしれません。ですがわたしたちにも共通点があります。
それは神様に創られた存在であるということです。
でも世界中の人を知っているわけではないのです。
もしかしたら、電話番号やメール合わせて
300人携帯電話に入っています
という人も中に入るかもしれません。しかしいつも連絡する人と限定するならば、
多くても
30人ぐらいかもしれないのです。いつも会っている人に挨拶はしますよね。
会話をしますよね。その人の悩みは聞きますよね。しかし知らない人に対しては、
どうでしょうか?もしかしたら、挨拶は交わすかもしれませんが、
悩みは聞かないですよね。あまり知らない人に相談はしないですよね。
このように神様に創られた存在であっても話したこともない人たちも
数多くいるのではないでしょうか?地球上の全ての人と会話をした事がある
という人がいたならぜひ会ってみて話を伺いたいと思います。
逆に全ての人が話をできる方がいます。それは神様です。
神様とそんなに親しく会話していないと思われる方はぜひお祈りをして下さい。
もう十分していますよという方はもっともっとお祈りをしてください。
私たちはいつも祈る気持ちを忘れてはならないのです。
感謝する気持ち、懺悔する心、そして神様に委ねていく思い、
その一つ一つが大切です。挨拶だって何回もします。
ですから神様と親しくなるためには、神様との対話が必要です。
つまり私たちが率先してお祈りをすることによって
神様との関係が深められていくのではないでしょうか?

 一方で他者に対してはどのようにふるまったらよいでしょうか?
それでは本日の与えられた御言葉をご覧ください。
まず始めに
9節~10節を聖書のある方はご一緒に読みましょう。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
兄弟愛を持って互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
このように書かれております。ここでは
5つのことが書かれております。
まず一つ目は偽りのない愛の心を持つことです。
私たちが愛を実践しようとする時、相手をだますことを念頭に置けば
その愛は偽りの愛となってしまうのです。人間は愛を利益に還元するときに偽る心が生まれるのです。
神様から贈られたものは全て、神様から無料でいただいたのですから
無料で与えてもよいのではないでしょうか?
2番目には、悪を憎むことです。人を嫌うのではなく悪を憎むことです。
神様が与えてくださるものは全て素晴らしいですが、
その良いものが体に入るとどうなるでしょうか?心の中では色々な思いがあります。
素直に「素晴らしい、感謝します」といえるのであれば良いものは良いものとなります。
しかし疑う心や妬む心があればそのものが悪へと変化してしまうのです。
その人間的な思いを私たちは断ち切らなければならないのです。

3番目は、善から離れないことです。善とは何でしょうか?
善とは
,英語の聖書ではgoodと訳されております。
つまり良いものから離れず、ぴたりとくっついていることです。
良いものとは神様から与えられたもの全てです。
ですから神様こそ良いものなのです。
そして
4番目と5番目は、つながっています。
兄弟愛とは兄弟姉妹のように愛することです。
兄弟姉妹でもけんかをすることもあります。
しかし一方では他人同士よりも絆が深い関係であるといえます。
自分の弟や妹、あるいは兄や妹は、仲たがいをしていても、
寄り添うチャンスは、沢山あります。どちらかが困っている時には
一致団結することが出来ます。それは血を分け合った兄弟姉妹だからこそ
家族の問題にも向き合うことができるのです。
そのように深い絆に結ばれているのですから、
お互いが尊重し認めあうことが可能なのです。
そのような関係を神様は私たちに求めているのかもしれません。

 次に1112節を見てみましょう。

(おこた)らず、励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望を持って喜び、
苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさいと書かれております。
これは他人に対してではなく、わたしたち一人一人に与えられている御言葉であります。
わたしたちは。どうしても怠けてしまいます。しかし霊に燃えて
私たちは全身で主なるキリストに仕えていきましょう。
そして希望を捨てることなく様々な困難にも負けず絶えず祈っていくこと、
これこそが信仰の原点であるキリストを信じるということではないでしょうか。
わたしたちは、兎角世間に流されがちであります。
今だからこそ私たちは立ち止まり信仰の原点に立ち帰るべきでは
ないでしょうか?自分自身が信仰に導かれた時のことを思い起こしてみてください。
自分がどんなことで悩み、神様を信じることになったか、
また神様に出会って、どのように歩んできたかを思い起こしてみてください。
私は牧師となって、この講壇に立っています。
しかし自分が信仰を持ったのは、もちろん牧師家庭に生まれたということも
大切な要因ですが、多くの方に支えられ、祈られたという事実もあります。
ですが自分が神様と向き合う気持ちが与えらえたことが最大の要因ではないかと思います。
人に祈られようが、結局自分自身が神様を求めていたことに気が付いたのです。
それは、人からすればそんなことと思われる些細なことかもしれません。
しかし神様は鋭い方なので、チャンスと思ったのかもしれません。
私を一気にそれも御言葉を語る者にまでされるのです。
私は自分で言うのもなんですが言葉を語ることが苦手です。
今だって不安は尽きません。しかし神様が語れと言われれば語るしかないのです。
福音を伝えよといわれれば福音を伝えるしかないのです。
伝道せよと言われれば、どんなところだって伝道しなければならないのです。
しかし神様が導いてくださるという思いを持っているからこそ、
いま牧師として歩んでいるのです。牧師にはいろいろなタイプがいます。
もちろん神様はすべてをご存知です。しかしこうしなければならないという概念はないのです。
どんな人であれ、どんな環境であれ、神様の召しがそこに注がれているのです。
私が西那須野教会に招聘を受けたのも神様が計画されたものだと今でも思っています。
自分が相応しいか、相応しくないかわかりません。
もしかしたら皆さんの期待に応えることが出来るほどの人間ではないかもしれません。
たぶんこうして欲しい、アーして欲しいと皆さんは思っていらっしゃる方もいるかもしれません。
しかしいつもわたしがどんな時にも、思うのは、
自分が選んだのではなく、神様が私を呼ばれたのだと考えるしかないのです。

 神様は、他者に対して自分に対してこう語っています。
本日の与えられた
1318節です。
聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、
旅人をもてなすよう努めなさい。
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。
祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
互いに思いを一つにし、高ぶらず身分の低い人々と交わりなさい。
自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさいと。
私たちはどんなときにもこのような心で歩みたいものです。
しかし現実問題として言葉通りにできるか心配かもしれません。
しかし私たちの足りないところは神様がなんとかしてくださるはずです。
ですから神様を信頼していきましょう。
それが自分に対しても他者に対しても神様に生きることとなるのです。
そして私たちは悪に負けず、全てのことに対して善の業を実践していきましょう。

お祈りいたします。
主なる神様感謝いたします。今日ローマの信徒への手紙から
私たちが歩むべき道を示してくださったことを本当に感謝いたします。
私たちは足りないところが多い者ですが、あなたが力を与えてください。
もっともっとあなたの業を担う者とさせてください。
そしてあなたへの信頼が増していくことができますように。
この
1週間も神様がお守りください。
このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン