2019811日西那須野教会礼拝メッセージ

「今こそ、その時」
Ⅱコリントの信徒への手紙516節から6章2節

 

日本キリスト教団では8月の第1主日を「平和主日」としています。

今年の平和主日を覚えて、今日は8月の第2主日ではありますが、
西那須野教会の皆さんと共に礼拝を守れることを主に感謝します。

今日の午後の講演でもお話ししたいと思っていますが、
この度機会をいただいて、朝鮮民主主義人民共和国を訪れることができました。

726日朝に羽田空港から北京空港に移動し、北京の朝鮮大使館でビザを受給し、
1泊して、翌日27日に北京空港から平壌空港に到着しました。
そして、81日の朝に平壌を出発して、北京空港を経由して、
1日の夜遅くに羽田空港に到着する日程でした。

今回の朝鮮民主主義人民共和国(これ以降は、共和国と略します)行きは、
二つの大きな目的がありました。

一つは、共和国にある「朝鮮基督教連盟」の方々との交流でした。

1910年の韓国併合から始まった36年に及ぶ日本の朝鮮半島の支配は、
政治、経済、文化、宗教の諸分野に渡り、朝鮮民族への皇民化政策、
弾圧、搾取、差別の限りを尽くしました。

また、日本の統治下にあったことで朝鮮半島は第二次世界大戦に巻き込まれ、
戦後は38度線を境に北と南に分断されることとなりました。

このような戦争責任の謝罪は、韓国の教会には度々行われてきました。

1967326日の復活主日に、日本基督教団総会議長鈴木正久の名前で出された
「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」は、
韓国の教会への謝罪と主にある和解のために、大きな役割を果たしています。

しかし、共和国にある教会への謝罪と和解は、
韓国の教会との関係と比べるとまだまだ足りません。実は、1987年に、
日本キリスト教協議会(NCC)より、3名の日本人が公式に訪朝していました。
しかし、その後の公式訪問は途絶え、個人的に日本人キリスト者が訪朝を重ねて来ていたのです。

このため、728日の朝鮮基督教連盟のポンス教会の礼拝に、
在日大韓基督教会の代表団と共に出席し、
礼拝後に、NCCの東アジアの和解と平和委員会の委員長として
「朝鮮基督教連盟の皆様へ‐謝罪と主にある和解を求める書簡」を朗読し、
許しと和解を公式にお願いをすることができました。
出席された皆さんは静かに耳を傾けてくださり、
私たちの思いを受け止めてくださったと思います。この文章は、午後の講演で紹介します。

もう一つは、「板門店」を訪れ、北と南の統一と平和を祈ることでした。

81日に平壌を車で出発し、2時間30分をかけて板門店に到着しました。
到着後、共和国の軍人の案内で、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた建物で説明を聞き、
その後板門店の共和国の建物の2階に案内されました。
そのバルコニーからは38度線が目前にあり、平和統一のブルーの家のすぐそばなのです。
そこで共和国の軍人が見守る中で、平和の祈りをささげることができました。
この時は、体全体がふるえ、胸にこみ上げてくる思いでいっぱいとなり、涙がとまりませんでした。

振り返って、この二つの出来事は大変大きな出来事であったと思います。
聞いてくださっている皆さんも、驚かれていることでしょう。
私も、自分のことにもかかわらず、自分で自分のしたことに驚くばかりなのです。
 

実は、この共和国訪問は、プランを十分に練りに練ったものではありませんでした。

何年もかけて準備したものではありません。正直に言うと。

このプランが動きだしたのは、2019年になってからです。

3人がキーパーソンでした。

1人は、関田寛雄先生です。今は神奈川教区の巡回教師ですが、
長く青山学院大学や他の神学校での教育に就くかたわら、
川崎市戸手で開拓伝道に励み、在日韓国朝鮮人への差別問題に取り組んでこられました。
私の神学校の恩師でもあります。この関田先生が、「朝鮮半島への謝罪と和解として、
共和国を訪れてほしい」と、今年の2月に強くおっしゃいました。

この要請を聞いたのが、NCC総幹事の金性済(キム ソンジュ)先生でした。
金先生はNCC総幹事として精力的に動かれる方で、早速関田先生の願いを何とか叶えようと動かれました。

また、時を同じくして、在日大韓基督教会としても、
朝鮮基督教連盟との交流をしたいとの願いを持っていた金柄鎬(キム ビョンホ)先生が、
総幹事として、このプランに乗ってくださいました。そして、私たちが共和国に入れるために、
朝鮮総連に働きかけてくださり、共和国からの入国受け入れが実現したのです。

それはまるで、一枚の絵が見事に描かれていくようなものでした。
実際には沢山の問題が連発して、もう無理なんじゃないかと思う時も何度かあったのですが、
実に不思議に問題は解決されて、そう、まるで何かの力に導かれるかのように、
ポンス教会の講壇に立つことができましたし、板門店のベランダに立つことができたのです。

このプランに関わった人が誰一人として欠かせない人であり、その大切なひとり一人を、
神さまが豊かに用いてくださったのだと信じます。
 

私は、「統一と平和の祈り」でこう祈りました。

「主よ、たとえ国と国が分かれていたとしても、
主にあって私たちは決して分かれるものではないことを信じます。

国と国が隔ての壁をいくら築こうとも、
それによって私たちの交わりが隔たれるものはないことを信じます。

今こそ、私たちが、一つとなれますよう祈ります。

今こそ、人間の力や知恵に頼るのではなく、
主に頼る者となれますよう祈ります。」
 

パウロが、「肉に従って知ろうとはしません」(コリント二516)と宣言したように、
私たちは「肉に頼る」のではなく、「キリストと結ばれる」(17節)のです。

今日の平和を覚えるこの礼拝において、
私たちは、私たちの平和の礎は主であることを覚えましょう。
いや、単に覚えるだけではありません。「私たちの平和の礎は主」と告白するのです

パウロは続けて言います。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、
人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。」(19節)。

「私たちは、和解の言葉を主からゆだねられている」のです。

私たちは、主が与えてくださった「和解の言葉」をもって、世に遣わされるのです。

沖縄教区の平良修牧師が、
戦後日本キリスト教団が沖縄の教会を名簿から抹消したことについてこうおっしゃいました。
「たとえ、沖縄がアメリカの統治下におかれたとしても、
教会と教会の関係は分断されてはならなかった。主にある交わりは、
そのようにして断たれてはならなかったという強い反省にたって、
沖縄キリスト教団と日本キリスト教団との合同のとらえなおしに向き合うべきだ」。

本当にそうだと思います。私たちは、今、何に立って世と向き合っているのかを
深く深く問わなければならないと思います。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(62節)

ここで言われている「時」は、言語のギリシア語では「カイロス」です。

ギリシア語で「時」は複数あるのですが、
その中で「カイロス」は単なる時を示すにとどまりません。
「神の時」「神が定めた時」という強い意味を含む言葉です。

「肉に従って知るのではなく、キリストを頼ること」そのために、
今がその時なのだと神が宣言しているのです。

「今こそ、その時なのだ」。この言葉に、私たちはただ従うのです。
恐れを捨てて従い、ためらいを捨てて従うのです。

かつて、あのマーチンルーサーキング牧師が「今こそ、その時なのだ」と
立ち上がったように、私たちも今日の礼拝から
「さあ、あなたも私の言葉を持って平和へと歩みなさい」と召されているのです。
 

「今こそ、その時」。

私は、この言葉が、私たちのすべてをおおい包んでいると思います。

それは平和だけではありません。私たちの存在そのものにも向けられていると思います。

どんなに苦しくても、どんなに辛くても。

自分の無力さや限界を目の当たりにして立ち尽くすしかできないときにも。

「今こそ、その時」と、主は、私たちを恵みと救いへと導かれるのです。

これは、ついには「死」をも超える響きをひびかせます。

実は、今日のこの聖書の箇所は、今から39年前に、
私の父が58歳でガンで死を迎えたその葬儀で語られた聖書です。

私は、父の死の現実の中で、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」を聞きました。

そして、この葬儀でのメッセージが、私の献身へとつながりました。