説教:思いやりのある奉仕とキリストのような生活

聖書:ヤコブの手紙 21426

 

今日与えられました聖書箇所、ヤコブの手紙からは、
奉仕としての働きと神の意志による働きには違いがあることが理解できます。
私たちが神
の意志に従って動くとき、
その道の途中で漆黒の暗闇に遭遇したとしても

神さまはご自身を私たちに現してくださいます。

この世界にはクリスチャンが理解すべきことが一つあります。
つまり、私たちによるクリスチャンとしての生活は、
助けを必要としている
に手を差し伸べることによって成り立っている、
ということです。

イエスはこの世と交わりを持たないようにと私たちに言われたのではありません。
私たちクリスチャンの行動や生活
様式は他者への模範となるはずであり、
それを通して私たちは困難の中にあっても、
心にイエスを保つことができ
るのです。

使徒パウロが投獄され、不快な状況にあったとき、
それにもかかわらず彼はフィリピの教会に自分が満足していることについて言及しました。
投獄されている間、彼は激しい不安を覚え

落胆
し、そして自己憐憫にさいなまれていたことでしょう。
しかし、それでもなお彼は、フィリピの
教会に対して、常に喜び、
そして教会に集う皆それぞれが、神の平和を経験しなさいと励ましました。
このことはフィリピの信徒への手紙4章4節
〜7節にあります。

ヤコブの手紙1章27節にはこうあります。「
みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、
世の汚れに染まることなく自分を守ること、
これこそ父なる神の前に
清く汚れのない宗教です。」

見先生と同士の方々がアジア学院を創設したことは、
この世界に多大な影響を与えただけでなく、
多くの人々から
尊敬の念と大きな支持を得ています。

これまでアジア学院を支えてくださった支援者の方々の忠実さと柔軟性に対し、
心より
感謝申し上げますとくに東日本大震災と原発事故があった年は、
世界中の教会から、そして個人から心温まる支援をいただいた
となりました
アジア学院が本当に神の眼球のようであることが世界に証明されたのです

アジア学院というのは、あらゆる人々が最も興味深く、
刺激的な物語を読むことができる世界的な図書館であると言えます

アジア学院を設立するという発想は、
日本政府が海外支援のためバングラデシュへと出向させた日本人に対し、
バングラデシュの家族から示された小さなジ親切でありました。

ちょっとした親切、あるいは善なる心から生まれ出る行動は、
誰かの人生に大きな影響をもたらすことがあります。
高見先生は、バングラデシュで受けた親切から魂を揺さぶられ、
人間には不可能だと思うことも、神さまにはできると考えはじめました。

高見先生は、何も十分に持っていなくても、
自分が持っている少しを誰かと分かち合うことができることを
理解するようになりました。列王記上
17章7章から6節には、
未亡人と預言者エリヤについて書かれています

人としての根本的な必要を満たすため、
私たちクリスチャンは神さまの使命に共感するよう求められています。
自分たちの中に神の心を育み、
神さまからいただいた賜物を隣人と共有する積極的な行動をする必要があるのです

ヤコブの手紙2章14節はこうあります。
「私には信仰がある」と言う者がいても、行いが伴わなければ、
何の役に立つでしょうか。信仰があっても行為が伴わざれば、
その信仰は無に等しいのです
。信仰には常に行動が伴うのです。
ラジオやテレビから、私たちはあとどれくらい
途上国の貧困と飢餓について聞けばよいのでしょうか?

ここでの問題は、どれだけのことが実行に移されたかです。
ときどき私たちは、発展途上国の人々が怠惰であったり、
悪い状況に苦しんでいるので貧しいと思っています。
ときに私たちは彼らを助けようとしますが、それは心からの善意ではなく、
私たちは彼らよりも優れているからだと思いがちです。
彼らは自分たちのようではないので、
彼らを助けなければならないと考えているのです。

高見先生は、日本が経済的に豊かであるから支援をしたということではなく、
貧しい人々を助けるためでありました。
そして聖霊による行いとも
べる善行に遭遇したことを知りました。
これこそ彼が「乏しさを分かち合う」と呼んだものです。
そして高見先生はこう自問されたことでしょう。
たとえ貧しくても分かち合いのために何かを差し出すことができる。
ではこの私はこの先、何をしなければいけないのだろうか

私たちの人生において、自分を通して誰かが心の安らぎを得るということほど
価値のあるものは何もないと思います。
しかし、私たちはクリスチャンであるというのに、
この機会を得ることを逃したことがよくありました。

スティーブジョブス氏は病床にあるとき、このようにいました。
「あなたは自分のために運転手を雇うことができます。
あなたは自分のボディーガードとして、
そしてメイドになるために誰かを雇うことができます。
しかし、あなたは自分のために病気を引き取って、
代わりに死んでくれる誰かを雇うことはできません。」

誰かが心の安らぎを得るために救いの手を差し伸べることが
できるということは、神さまからいただいた貴重な賜物です。
ある人はテレビに出てくる有名人のような富や美しさ、
才能、名声を持っているかもしれませんが、同時に、
助けが必要な人を救うという貴重な機会を逃しています。

イエスは十字架にかけられる前に弟子たち話しかけました。
イエス私たちが苦しみや困難に遭遇することがなく、
経済的安定があることを約束するとは言いませんでした
イエス
は苦しみ落胆、
仕事の不確実性からの解放があると私たちに約束しませんでした。
しかしイエスは
私たちにこう言い残しました。
私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。」

高見先生はかつてこのようにわれました。
「正義と平和という名のもとにしばしば平和は吹き飛ばされます。
または平和の名の下に、正義は踏みにじられます。
なぜなら、哲学の観点から正義と平和を考える人は、
それらを両立できないものと見ているかもしれないからです。
しかし、貧しく飢えた人々にとって、平和、正義、繁栄とは、
毎日三度の食事を摂るという単純なことなのです。

タカミ先生が最初にARIの目的と呼んだものを読むのが好きです。

「イエス・キリストの精神に基づき、農村指導者を養成し、
アジアそしてアフリカの草の根レベルで
個々人が自己の潜在能力を
最大限に発揮できるような、
公正且つ平和で健全な環境を持つ世界を構築することにあります。
私たちは農村の人々が地域で自分たちの持っている地域資源や能力を
共通の目的のために分かち合い、
活用する最善の方法を見出してゆくのです。

共に生きるために

Iしかし今コロナウイルスがはびこる中、
世界はこのアジア学院のモットーとはまったく逆のことをしています。
「私たちはそばにいると共に死ぬかもしれませんが、
離れているなら生きのびることができるかもしれない。」

私たちは今、マスクをつけて口を閉じ、他人との距離を保つようにしています。
お互いに距離を取り合うことはコロナウイルス対策として
有効であるとは思いますが、
アジア学院のモットー「共に生きるために」ということを私たちは常に心に
持ち続けなくてはなりません。
そして霊的に自分自身を受け入れることを忘れてはならないのです。
ヘブライ人への手紙
1025節にはこうあります。
「ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、
かえって励まし合いましょう。かの日が近づいているのを見て、
ますますそうしようではありませんか。」私は、
皆さんとの距離を保ちつつも、皆さんのために祈っています。
皆さんも各御家庭で、
キリストがあなたに託された信仰を実践することを忘れないでいてください。

お祈りいたします。