『イエスに繋がって』 

 聖書:ヨハネによる福音書 151-8

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっていながら、
実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、
いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 わたしの話した言葉によって、
あなたがたは既に清くなっている。 わたしにつながっていなさい。
わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、
自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、
わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、
その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、
望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、
わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 

ハレルヤ!

私たちの御父なる神様の愛とお守りが皆さんの上に降り注ぎますようにと願い祈ります。

普通ならば今の時期は幸せな時、恵みに満ちた時です。
自然の恵みに囲まれて春の美しさを味わう時です。
子供の日、母の日等ゴールデンウィークの時期ですが
かざる客であるコロナウイルスのせいで苦しい時になってしまいました。

でも神様はコロナウイルスの苦しい暗闇の時を明日への希望に導いて下さると信じ、
全ての事を神様に委ねていきませんか。

教会で共に集まって礼拝する事が出来ない今こそ、
私たち一人一人が神様の愛と霊に繋がって、
異なる場所に居ても一つに成る事を信じています。

今日、与えられた御言葉のキーワードはこの言葉です。『私はブドウの木、あなたがたはその枝である』。

1. 神の愛です。

「私はブドウの木、あなたがたはその枝である」とは神様の愛です。

1節に『私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。』と宣言されています。

農夫は土地を作ります。木の枝を取り除く剪定をします。

ルカによる福音書138にはやし、堆肥を施します。
ローマの信徒への手紙111724には神様は栽培するオリーブの木に
接ぎ木することがお出来に成る方である、だから今神様の恵みと力によって
接ぎ木され神の慈しみにとどまる事が出来る枝として、
私たちは木に繋がっているのだとパウロは教えています。

更にヨハネはヨハネの手紙Ⅰ 410で『私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛して、私たちの罪を償う生贄として、
御子をお遣わしに成りました
』と書かれています。

イエスはブドウの木、私たちはその枝に成るとは、
神様が私たちを枝として受け入れてくださったということです。
欠けた所が多い私たち一人一人をブドウの木に接ぎ木して
くださったのは何よりも神の愛です。
しかしコロナウイルスは私たちを切り離そうとしています。

悪魔はひそひそとささやきます、「お前は完全ではなく、罪を犯して、
何の役にも立たないので信じても無駄だ」と。しかし神様は悪い、
欠けた所が多い私たちを接ぎ木して下さるのです。
接ぎ木は品実が良くない枝を切って良い枝を接木しますが神様は恵みと力によって
神の慈しみを信じる事でブドウの木である神に繋いで下さったのです。
これは神の愛です。神の恵みです。

目に見える教会ではなく、目に見えないそれぞれの場所で今も共に神を見上げて祈り、
御言葉を望んでいる皆さん一人一人は、
確実に神様に繋がっている木の枝として存在している事を信じ感謝しましょう。

2. 繋がっているとはどういうことでしょうか。

4節には「私に繋がっていなさい」とイエスは呼びかけています。

昔、電話は電話線無しには電話が出来なかったですが、
今は線が無くても全世界と繋がっています。電波と言う技術で可能になっています。
今も皆さんと私は目には見えなくても繋がっています。

イエスと私たちも目には見えなくても繋がっていることを信じていますか。

イエスの木に枝として繋がる条件とは何でしょうか。
いま私と皆さんとが繋がることが出来るのはインターネットに繋がっているからです。
リンクによって繋がることが出来ているのです。

聖書も目に見える形でイエスと繋がる事を教えています。

7節にはそれをこのように記しています。
「私の言葉があなたがたの内にあるならば」と一つの条件を記しています。

献金をいくら捧げれば良いかでも無く、毎週教会の礼拝に参加する事でもない。

立派な奉仕をする事でもなく、聖書の言葉をどれだけ覚えているかでもないのです。
つまり自分の内にイエスの言葉があるかどうかなのです。皆さんは自分に問いかけたら如何でしょう。

絶望してしまいますか。

私はイエスに繋がっていないのではないかと悲しくなりますか。

でもイエスは9節に私の愛に留まりなさいと教えています。

今私と皆さんとが繋がる条件は複雑です。簡単ではありません。

でもイエスに繋がる条件はただ一つです。イエスの愛に留まる事です。

イエスの愛に留まるとは、ヨハネによる福音書316「神様が私たちを愛して、
独り子を与えた事」を信じる事です。
ヨハネの手紙Ⅰ4910にあるように「罪を償う生贄として来られた」事を認めて信じる事です。

イエスを神の御子とし、私たちの為に十字架にかかり、死に、
復活なさった方こそ自分の救い主であると信じ受け入れていますか。
その信仰を持って神を愛し、神の御言葉と共に歩んでいますか。
それこそイエスに繋がっている事を明らかにしています。イエスに繋がりましょう。
イエスキリストは皆さんの手を握って共に居られます。
私たち一人一人は主イエスのブドウの木に繋がって一つに成っています。
神様の霊によって繋がっています。神の愛で繋がっているのです。

3.イエスに繋がる恵みとは。

3節には「既に清くなっている。」と書かれています。

過ぎ去った足跡を振り返って見ると、有る時には憎しみ、有る時には欲望し、
有る時には人に悪口を言い、有る時には相手を無視し、高慢になり、
他人を批判することで私たちは汚れています。
でも、いつも神様の御言葉を思い出して悔い改めていると、既に清められているのです。

イエスに繋がっていると罪人に過ぎない私を、神は恵みと愛によって清くして下さるのです。

5節には豊かにを結ぶと書かれています。

イエスを信じ豊かに実を結んでいますか。

ガラテヤの信徒への手紙 52223には霊の結ぶ実について書かれています。
『これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。』との御言葉を胸にし、祈り、
賛美すると平安になり、落ち着き、平和や喜び、安らぎを感じ、親切になり
、柔和になる事が出来るでしょう。もし何もないならイエスに繋がっていない、
神の愛を知らない、神に委ねていない、神を信じていないのです。
勿論洗礼を受けていなくても、教会の礼拝に参加できなくても、心から信じ、
イエスの愛を受け入れ、繋がっていると豊かに実を結ぶのです。
イエスの御言葉は真実です。真理です。

不思議な平安と慰めが心の隅々に知らないうちに広がるのを感じた時、
驚くべき豊かな実を愚かな私にも与えて下さった事に気付きます。

その恵みを味わいながら今週もいきましょう。