説 教 題:家族と共に生きる信仰

聖  書:テモテへの手紙Ⅰ 518

老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思ってしなさい。若い男は兄弟と思い、
年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思ってしなさい。
身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。
やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、
親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。

身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、
放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。
やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。
自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、
信者でない人にもっています。

 

 

 

ハレルヤ!
今日は母の日です、全てのお母さんたちに神様の祝福が降り注ぎますようにと願います。
カーリル・ジブラン(Kahlil Gibran)は次のような言葉を残しました。
人類で語られる最も美しい言葉は「母」という言葉であり、
最も美しい呼びかけは「お母さん」への呼びかけです。それは希望と愛に満ちた言葉であり、
心の奥底からくる優しい言葉です。母親はすべてです。
お母さんは私たちの悲しみの慰め、悲しみの希望、そして弱さへの私たちの強さです。
お母さんは愛、慈悲、共感、そして許しの源です。」と。

母の日を迎えてお母さんたちに感謝をもって歩む生き方を確かめていきたいと思います。
そしてお母さんから学んだ事、
お母さんから頂いた愛を思い起こしてこれらの事を忘れずに生きていきたいと思います。

私は自分の母を思う時、色々な思いが胸いっぱいに溢れてきます。
一言で言えば愛です。大きな愛を持って育てられた事に気付きます。
もしその愛を知らなかったならば、今の自分は如何なっていたでしょう。

私の母は今も毎朝教会の早天祈祷会に参加して私の牧会のために祈ってくれています。
本当に私は恵まれた子供です。
今日の聖書の個所の御言葉を一言で言うならば愛を持って人々と接しなさいという事です。
カーリル・ジブランの言葉を紹介しましたが、「母」という言葉が美しくなったのは愛が有ったからです。
私も母に対して感謝の心を持っているのは母の愛を実感したからです。
今日の説教題を「家族と共に生きる信仰」としました。
パウロは教会の人々に対して勧めの言葉を書いています。
日常の生活においては14節にあるように、老人、若い男、年老いた婦人、
若い女性、やもめ、やもめの子供たちなど、
いつもの生活の中で接する全ての人々に愛を持って生活するようにと教えています。

如何すればこれらの目標をクリアできるでしょう。

今は自粛しなければいけないので、困った事に髪の毛を切るために床屋
理髪店に行けませんが、そんなことは十分に乗り越える事が出来ます。

しかし愛がなければ自分の子供は良く育たないのです。

今の問題は親からの愛を知らずに育ち、
相手を愛する事が出来ない家庭が増えている事です。

自分はれた親に出会い幸せに生きていると感謝して母の日を迎えるだけでなく、
神の愛を知っているクリスチャンとして如何生きるかを神に祈りながら、
今こそこの世に仕える神の僕として神様の教えに耳を傾けて行きましょう。

1. 家族の世話をする事です。

8節の言葉は良く言われている言葉でも有ります。
クリスチャンの家庭で育てられた人がこの箇所を読んで、
自分の親は家族の事より教会の奉仕にを出していたから、
自分は教会に親を取られたと思い、
なぜこの言葉を親は知らなかったのかと怒りを持つかも知れません。

特に牧師の家庭に育った子供たちがよくこう言っていると言われています。

でも不思議な事は子供の時に同じ思いを持っていて、
自分が大人に成ったら親のようには成らないと思った人ほど、
イエスの愛に出会い神に献身すると自分も自分の親のように活動し携わって働きます。
ただ、必要なことは子供が親から見捨てられたのではなく、
本当に愛されているという事を感じられるように、心から熱い愛を示す事です。

ここで大事な事は神を愛するなら家族も愛する事です。
主イエスはマタイによる福音書1546に『神は、『父と母をえ』と言い、
『父または母をののしる者は死刑にせられるべきである』とも言っておられる。
それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、
「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、 父
を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、
自分の言い伝えのために神の言葉をにしている。 』と教えました。

幾ら子供たちと接したとしても愛が無ければ意味が無いのです。

自分が持てる愛では無く神から頂く本当の愛を受け入れて
神の愛を分かち合う信仰を持って歩みましょう。

2. 神の愛を求めましょう。

不安に成っていますか。神の愛を求めましょう。

心が荒れていますか。神の愛を求めましょう。

何か怒りがこみ上げていますか。神の愛を求めましょう。

人に傷つけられて悲しんでいますか。神の愛を求めて下さい。

人々を世話する事が大変ですか。神の愛を求めて下さい。

聖書の戒めと教えに重荷を感じていますか。神の愛を求めて下さい。

電気製品はバッテリーの充電なしには使えません。
それと同じように私たちも神の愛の充電なしには生きていけません。

疲れた時、倒れた時、嫌な時、その時こそ神の愛を求める時です。
神に繋がってその愛を深めましょう。

 

3. 家族と共に生きるため

私たちの家族は誰ですか。法律的に言えば自分の親族ですが、イ
エスはマルコによる福音書 335に『神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、
また母なのだ』と明らかに教えました。
そしてパウロはエフェソの信徒への手紙219にこのように述べています。
『従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、
聖なる民に属する者、神の家族である』と。ですから教会で神の前に皆兄弟、
姉妹と呼ぶのです。そして全ての人が私たちの家族に成る事を願い求めているのです。
これらの点で家族と共に生きるとは、全ての人々と共に生きる事を聖書は教えています。

神の愛を受けた私たちは神の愛を分かち合う責任、或いは使命が有るのです。

愛を知らない人々に主の愛を知らせ、
愛に触れて共に生きることが出来るようにするのは私たちの使命であり義務なのです。

西那須野教会がどのように地域の人々と共に生きるのか、
アジア学院を通して世界の人々とどのように共に生きるのかは私たちの課題です。

アジア学院とは長い間に絆を結び、目に見える形には成りましたが、
この地域に皆さんの周りにいる人々に皆さんの信仰を広げて分かち合い、
キリストの命の光を照らすために今こそ神様が示している事を聞き取りながら生きていきましょう。

私に与えられた家族とは誰なのかと自分に問いかけながら歩んでいきましょう。
神が私たちに与えられた、養わなければいけない者とは誰なのかを探して見ましょう。

支えるにも養うためにも勿論、犠牲が伴います。

イエス・キリストは十字架にかかり、私たちに全ての愛を下さいました。

今は私たちがイエスの手として、イエスの足として、
イエスの体としてイエスのように生きる時ではないかと思うのです。

勿論パウロが8節に、自分の家族と言われたのは普通の自分の親族、
家族を意味していますが、神様の愛を受けている私たちには我らの家族は我らの隣人です。
いつも接している人々です。今苦しんでいる人々です。
それらの神の家族を愛し、神の家族として信仰を持って家族の一人に成って生きましょう。