説教題:復活させた方の霊によって

聖 書:ローマの信徒へ手紙8511 『肉に従って歩む者は、
肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、
神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、
肉ではなく霊の支配下にいます。
キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
キリストがあなたがたの内におられるならば、
体は罪によって死んでいても、は義によって命となっています。
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、
あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、
あなたがたの内に宿っているその霊によって、
あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。 』

 

ハレルヤ!主の限りない愛が皆様と共に居られますように願い求めます。

今日はペンテコステの主日です。

復活なさったイエスは弟子たちと40日間共に居られた後に天に上げられました。
使徒言行録16-11に記されています。
そして主イエスは天に上る前に14~5でこの言葉を与えたのです。
「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。
『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、
父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、
あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」と
教えました。そして214に記されたように10日が過ぎた五旬節の日に
突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、
彼らが座っていた家中に響いたのです。
一同は聖霊に満たされたと書かれています。
ペンテコステとはこれらの事を言います。
この聖霊に満たされた事で始まった新たな教会の歩みを覚えて、
教会カレンダーでは毎年ペンテコステを覚えて記念日としています。
聖霊とは11節にあるようにイエスを死者の中から復活させた方、神の霊です。

この神の霊が皆様の内に宿って居ますか。と
問いかけられても正直分からないと思うかもしれません。
ですから聖書からこの事を確認して見ましょう。

ヨハネによる福音書1426節にはこの言葉が記されています。
『父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、
あなたがたにすべてのことを教え、
わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。』

この御言葉によると何か有った時に聖書の御言葉が思い出して
悔い改めて信仰に留まる事が出来れば、
それは内に居られる聖霊の導きであると確認できます。

フィリピの信徒への手紙2111にこの言葉が記されています。
1節には「霊による交わり、それに慈しみ、憐れみが有るなら」
2節、「心を合わせて思いを一つにして」
5節「それはキリスト・イエスにも見られるものです。」とあります。
また11節に「全ての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、
父なる神をたたえるのです。」と記されています。
イエス・キリストが主である事を告白し、神を讃えていますか。
もしそう出来ているなら、それは内なる霊によってなされている証拠です。

そして1節には『そこで、あなたがたに幾らかでも、
キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、
それに慈しみや憐れみの心があるなら、』聖霊によって励まし、
慰めが与えられると記されています。

悲しい時に主の慰めを経験しましたか。
暗闇の時に、悩んだ時に励ましの心を味わったことが有りますか。
それも内なる聖霊によるものです。

ルカによる福音書2432にはこの言葉が記されています。
『二人は、「道で話しておられるとき、
また聖書を説明してくださったとき、
わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。』とあります。

聖書の御言葉を聞いた時に心が燃えたことが有りますか。
心を打たれたことが有りますか。

ガラテヤの信徒への手紙522-23節には聖霊のについて記されています。

信仰を持って神に委ねて御言葉と共に、祈りと共に、
賛美と共に過ごしているなら必ず幾らかでも聖霊の働きを感じたでしょう。

もし何も無かったら今こそ心を開き、
神様無しに生きて来た自分の罪を告白して神に祈り、
そして御言葉を信じましょう。
すると神の霊、聖霊があなたの心に降り注ぐのです。

そしてこのように祈って見て下さい。

「主なる神、今私の心を開き神様を受け入れます。
私の人生に神様を私の神として認め、信じ、受け入れます。
私をあなたの僕として捧げます。神に繋がって生きる信仰の道に導いて下さい。
これらのことを願い委ねて告白します。」と

ペンテコステの時には激しく聖霊の臨在が起きました。
また多くの人々が気づきました。
でも時にはルカによる福音書2432の弟子のように後から
気づく静かな聖霊の臨在も有るのです。

今全世界の教会はペンテコステの日を覚えて礼拝を持っています。
その理由は聖霊の臨在だけでは無く、
聖霊の導きと助けと働きを受けて81の御言葉のように
主イエスに結ばれて生きるためです。
キリスト・イエスによって霊の法則で生きるためです。

4節に「肉に従って歩むのではなく霊に従って生きるためです。」とあり、

6節には「霊の思いは命と平和で有ります」と記されています。

ここでの命とは死んでも生きる命です。
ヨハネの黙示録31節にはこの言葉が記されています。
『私はあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、
実は死んでいる』と。神様が聖霊によって与えられる命とは、
名ばかりの生きているとしても実は死んでいるような意味が無い命では無く、
永遠に繋がり、イエスに結ばれ、イエスと共に生きる真の命なのです。

では復活させた方の霊によって生きるには何が必要ですか。

1. キリスト・イエスに結ばれて生きる事です。

キリスト・イエスに結ばれていますか。何に結ばれていますか。
御言葉で結ばれていますか。聖書の御言葉一つ一つが皆さんの歩みに繋がっていますか。

イエスは誘惑が有った時に人はパンだけで生きる者では無い、
神の口から出る一つ一つの言葉で生きるとマタイによる福音書44で教えています。

神を信じ、イエスに結ばれて生きるとはブドウの木に接ぎ木される事です。
何が有っても葡萄の枝としてイエスの愛に留まり、結ばれて、
御言葉に導かれて御言葉に留まっていくことで、何時も霊に結ばれていくことに成るのです。

 

2. 霊に属そうと思う事です。

「人間は考える葦である」というブレーズ・パスカルBlaise Pascal)の言葉は有名です。
大きな大木では無く風にも揺れてしまう弱い者ですが、
台風のような強い風にも倒れない葦のように強いのは、
考える存在だからと言われました。

私たちの行いは思いから始まります。
何を考えているかによって歩みが決まります。
ですからパウロは肉による思いと霊による思いが有るとし、
霊の思いに従うと命と平和に導いてくれると教えています。

日常の生活の中に何かの思いが浮かぶとその思いが肉からの物か、
霊からの物か、聖書の言葉から神様が与えて下さった思いなのかを
問いかけながら歩む事が信仰の道であると聖書は教えているのです。

例えばある日突然有る方の顔が浮かび思い出すと、
クリスチャンは先ずその方のために祈ります。

時には有る団体が思い浮かぶと、祈りながら何か助けられないかと道を探し、
そして自分の手を差し出します。

霊の思いに従って歩むとは祈る事、奉仕する事、手伝う事、支え合う事、
手を繋ぐ事などの行いにまで進み、霊の思いに従って生きる事を示しています。

思う事は自由です。何でも思う事は出来ますが、
霊に導かれる思いによって良い道を行くことを願い求めて生きましょう。

3. 8節には神に喜ばれる事のために生きる事です。

なぜ神に喜ばれるために生きるのですか。

神様から愛されたからです。罪人であり愚かな私たちを選び、
罪人である私たちの救いのために御子イエス・キリストを十字架に
つけるほど限りない愛を下さったからです。
それはどの恵みを頂いたからこそパウロはローマの信徒への手紙148
『生きるにも死ぬにも主のためです』と告白しました。

ヘブライ人への手紙116にこのように書かれています。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。』

霊に導かれて、霊に満たされて行きましょう。父なる神を主として信じ、
与えられた御言葉を日常の生活の糧として生き、
主に結ばれてイエスを死者から復活させた神の霊が死ぬはずの
私たちの体をも生かしてくださる恵みを希望として感謝していきましょう。

締めとして賛美します。讃美歌21-206の曲です。

まことのみ霊

1. まことのみ―霊 せいれいととーもに

みくにのたーびじ、みちびきください。

つかれしものは 良き知らせ聞く

みたまはまねく 「われにしたがえ」

 

2. わがゆくみちの すべてをたすけ

さまようときもともないください

あらなみつよく のぞみなきとき

みたまはまねく 「われにしたがえ」

 

3. この世のたびじ 終える時にも

みくにのほかに なぐさめはなし

ただ主にたより みくにに入る時

みたまはまねく 「われにしたがえ」