2022年3月20日西那須野教会礼拝説教文 説教者:荒川朋子姉(アジア学院校長)

説教題:「暴力の世界とアジア学院の使命」、聖書:ヨハネによる福音書17:20-26

 

先週のオンライン平和講演会で、クリスティさんが母国カメルーンの5年間に亘る内戦のことをお話しくださいました。家族のいる、はるか遠い母国で、残忍を極めた暴力が繰り返されている実態を話すことは、どんなにか辛いことであったことと思います。私は通訳をするために彼女の隣に座っていましたので、途中から彼女が涙をぬぐいながら話しているのに気づき、それでもそれを見ていることしかできず、ただただ申し訳なく思いました。クリスティさん自身も多くの人に現実を伝えたいと思っていることは確かだと思いますが、それを実際に口に出さなければいけない辛さは、当人でなければ分からないことだと思います。私たちは、その悲惨な現実を知った人間として、それについて深く考え、できることがあれば行動を起こす責任があると、改めて思いました。

私たちは今、インターネットの発達によって、画面上であるとはいえ、世界中で起きていることを良いことも悪いこともほぼリアルタイムで知り、観ることができます。連日トップニュースを占めるロシアのウクライナへの侵攻の様子は、市民が個人のスマートフォンで撮影した動画や写真までもが瞬時に送信されるので、メディアが入り込めない場所の詳細なことでも、私たちはいつでもどこでも知らされることが可能です。それはクーデター後の混乱の中、ジャングルに逃げ込んだミャンマーの避難民についても同じです。奥深い森の中に大きなビニールシートを広げて作った簡易避難所に、多くの子どもやお年寄りが身を寄せている様子、わずかな湧水が出る場所を掘って水場を作る様子(といっても直径わずか60-70㎝の穴に貯められた泥水のようなもの)、ゲリラ戦を繰り広げる反政府軍に食糧を運ぶために危険を冒してさらに森の奥深くに入っていく青年たちの後ろ姿やその足音まで、以前では考えられないような写真や映像がアジア学院の卒業生からも送られてきます。クリスティさんが講演の中で映し出してくれた写真も目を覆うようなものが沢山ありましたが、インターネットではもっとひどいものがいくらでも見れると夫のティモティーさんは言っていました。

このように私たちは争いの恐ろしさ、暴力の悲惨な果てを、日常の中でとても身近に感じることができようになりました。どんなに平和で静かな生活を送っていても、どんなに避けようとしても、同じ地球上に残忍な暴力が起きていることは隠しきれない紛れもない事実で、私たちはみんな「暴力の世界」で生きているということを否が応でも知らされます。でもそれは今に始まったことではなく、以前からずっとそうでした。今と昔の違うことは、知る術や伝える術がなかったり、限られていたために、何も起こっていないと思っている人が多かったということだけではないかと思います。でも今は、幸か不幸か、知る術も伝える術も沢山あるために、私たちは選択の余地もなく、ある意味「暴力」にさらされています。一方で、インターネットでつながることによって、支援に参加する方法も増え、その速度も増しました。西那須野教会も、昨年始まった「善きサマリア人募金」を通じて、多くの災害の当該地に支援金を素早く送ることができました。

しかし、日常的に「暴力」にさらされている分、私たちもまた日々傷ついています。私たちは皆、暴力の世界に関わることにより、途方もなく傷ついているのです。暴力の渦中にある人はもちろんのこと、それを知ってしまった人たちも、暴力に対して何もできない、そんな世界を作ってしまった、加担してしまった罪悪感で傷ついたり、自分の過去のひどい経験を思い出してしまったり、それがトラウマになったり、自分の心理にマイナスに影響していくことも多々あります。涙をぬぐいながら話すクリスティさんの隣で、私もひどく傷ついていました。

このような「暴力の世界」に生きる私たちを、そして深く傷ついている私たちたちを、神様はどのように見ていらっしゃるのでしょうか。神様は聖書のいたるところで、争わず、平和に柔和に、互いに愛し合って生きよ、おっしゃっていることはよくわかっています。でも、クリスティさんが、非暴力で平和を達成することは可能なのかと問うたように、それは突き放したような非現実的な期待にも思えます。神様が「暴力の世界」を一方で作りながらも、達成しようとするビジョンは何なのか、特に私はそれをアジア学院を通じて考えてみたいと思いました。

参考にしたのはこの本です。「暴力の世界で柔和に生きる」というタイトルのこの本は、スタンリー・ハワーワスというアメリカ人神学者とジャン・バニエという、障がい者と共に生きる「ラルシュ」という共同体の創設者(フランス人)との交換文書で、今日のタイトルもそこからいただきました。このラルシェというコミュニティは世界に何か所かあり、潘先生のお嬢さんのウンギさんはそのうちのひとつのスイスにあるラルシェにいました。差別され、社会の隅に押しやられ、排除された障がい者とその方たちをサポートするスタッフとボランティアたちが共同生活を送るコミュニティです。

この本の中で、ジャン・バニエが戦争と平和について考え、ラルシェ共同体が果たすべき役割は何なのかを追求する箇所がありました。

バニエは人と人を隔てる「壁」、特に力ある者と力ない者とを隔てる「壁」が対立や争いに関係すると言いました。創世記の3章でアダムが神に背き、神がアダムを探しているのに、アダムは恐ろしくなって隠れるという場面を引用し、「恐れ」こそが私たちの心に「壁」を築くとジャン・バニエは言います。「わたしたち人間はみなか弱く、人と人の間に、孤独や神不在という土台の上に壁を築いていきます。それは、恐怖の上に立てられた壁ですーその恐れが、絶望を抱かせ、あるいは、自分が特別であることを周りに知らせたくなる衝動になっていくのですー。」と説明します。

ではその「恐れ」とは何なのかと、バニエはラルシェで共同体の仲間と追求していきます。するとそれは「拒絶」「放棄」「成功できないこと」「挫折」「堕落」「死」などであることがわかり、それらは自分が「まるで無価値であり」「存在しないかのようにみなされることに対する恐れ」を生み、それが意識できるようになると、「今度は引きずり下ろされることから身を守ろうとする衝動」がはっきりしてくると言います。つまり、自分の尊厳が失われることへの恐怖の自覚と、そこからさらに深く引きずり下ろされるかもしれないという可能性から、何としても自分の身を守ろうとする衝動が暴力に発展していくと言うのです。

これは歴史上の多くの対立の事実と重なります。そして今の世のカメルーンも、ミャンマーも、そしてロシアにもまた同じ理屈があるように思います。

イエス様の生きておられた時代もまた例外ではなく、混乱の最中、対立がいたるところに起こっている世界でした。権力を持つ者たちの、自分らの「真理」こそが何よりも優れていて一番だという信念を守るための行動が様々な暴力にエスカレートしていきました。しかし、イエスがそんな世に描いておられたビジョンは「桁外れだった」とバニエは言います。それはなぜかと言うと、イエスは、そんな世の流れに真っ向から反対して、「人々を呼び集めながら、出合わせ、対話させ、互いに愛するようにすること」だからだとジャン・バニエは言います。

もっと正確には、「イエスがおいでになり、わたしたちと共有しようとしておられるビジョンとは、人々と出会い、人々を信頼することをめぐってのものです。イエスを信じるとは、わたしたちが愛されていることを信頼することです。宗教やその他の集団に属するということよりもずっと深くにあるものを知ることです。そこには、信実(正直、まじめ)の友、イエスの友、神の友になるという根本的な経験が存在しているのです。」とバニエは言います。そして、ここからが重要です。彼はこう続けます。「しかし、このわたしはそれを独りで知ることはできません。このわたしには、共同体が必要です。このわたしには、友が必要なのです。」と言いました。

イエスのビジョンを知ること、イエスを信じるには、共同体、コミュニティが必要だ、友が必要だ、とバニエは言うのです。

これを読んだ時、私はアジア学院の創設の目的として高見先生が言った「宗教の壁を超えた「真の対話」による人間性の回復」ということの意味に触れたような気がしました。高見先生もまた、ひとりひとりが神様に愛されていることを信頼できるために、コミュニティが必要だと思われたのではないかと思いました。人が集まって、心を開いて、「真の対話」を通じて人間らしくいることのできるコミュニティは、イエスのビジョンを理解し、それを達成するために必要なのです。それも、社会的な属性を超えて深いところでそれを知ることができるために、例えばキリスト教徒だけが集まってキリスト教徒だけがその恩恵に与(あずか)ればよいという狭いものではなく、宗教の別なく、全ての人が集まることが必要なのです。高見先生の書かれたものの中で大好きな箇所の一つで、アジア学院の創立開校式の様子を書いた文章があります。

「参加者の中には、牧師あり、信徒あり、国会議員、県会議員、町長や助役、公務員、学校教師、学生、付近の農民、金融関係や財界人等々、老若男女、社会の各層を広く代表する顔ぶれであったが、その大多数はノン・クリスチャンであった。その彼らが、東南アジアの各教会から派遣されて来た教職や、信徒たち、そして全員クリスチャンである職員達と共に、彼らにとっては、「未だ知らざる神」に捧げる礼拝に参加し、共に祈り、共に讃美したのである。この出来事は誠に劇的であった。この感激は、キリストの教会によって繰り返されるべきでものである。」

そして、さらに高見先生は、イエスが伝道された時も、パウロが伝道した時も、「この劇的な出来事の連続であったに違いない」と言って、アジア学院の創立開校式のその様子は「神の摂理」とまで言っています。

ジョン・バニエが言うこところの「根本的なアイデンティティを持つすべての人たちと結び付けられているというアイデンティティ」を知るために、コミュニティは欠かせないと、高見先生もまた思われたのではないかと思いました。多様な人々が集められるコミュニティに属して多様な人々と対話を繰り返すことで、私たちはいつの間にか築いてしまった自分の心の奥底の「壁」の外側、あるいは反対側の人たちと出会い、その人たちの賜物を発見し、それを感謝することができるとジャン・バニエは言います。そういう「壁」の外側、反対側の人たちと共に喜び、祝い、幸せに生きる方法を学ぶことで、互いに愛し合うことは可能なことなのだということを知ることで、まず自分に変革が起こる、そしてそれによって世界は変えられていく、つまり平和な世界への礎(いしずえ)が築かれていくというのです。

私は、世界の様々な地域から、それぞれの深刻な課題を持った人々を集めて研修事業をするというアジア学院の使命が、「呼び集めながら、出合わせ、対話させ」それぞれの「壁」を取り崩して、「互いに愛するようにする」というイエスの大きなビジョンの中にすっぽりと入っているように感じました。アジア学院のモットー「共に生きるために」はジャン・バニエの言葉ではこうなるのではないかと思います。「おそらく私たちに最も必要なことは、弱い人たちや傷つきやすい人たちと共に喜びあうことなのです。おそらく最も大切なことは、祝福のコミュニティをつくる方法を学んでいくことなのです。おそらく、わたしたちが共に楽しむことを学ぶとき、この世界は変えられていくのです。」

そして、これこそが、この暴力の世界に生きる私たちに神様が見る、ずっと見続けるビジョンであると思いました。「傷ついた世界において平和に、柔和に生きる」。その術をコミュニティに生きることから私たちは学び得ると、イエスは、神は言っておられると思うのです。

それは、今日の聖書の箇所にも通じることです。

今日の聖句は、ヨハネによる福音書17章ですが、13節から始まるイエスが弟子たちに対して語った長い別れの言葉の最後の部分です。それまではイエスは弟子たちに向かって、弟子たちのこれからについて語っていましたが、20節からは、「彼らの言葉を聞いて私を信じている人々のためにもお願いします。」と言って、弟子たちだけでなく、弟子たちがこれから福音を伝えるであろう未来の信者たちにも思いを馳せていることが分かります。そして、そこには分断し対立する現代の私たちも含まれていると思うのです。その未来の教会、信者のために、イエス様が神に向かって、すべての人をひとつにしてください、と何度も何度も祈っています。「壁」で互いを隔て、争い、分断する人たちが、今の世にもあることをすでに予想して、神とイエスがそうであるように、ひとつになりますように、神様が彼らをも深く愛していることを彼らも知ることができるように、神様とイエス様の関係のただ中に、彼らも共にいさせてください、と繰り返し、強く祈っています。

イエス様がこのことを最後に祈ったのは、それほどまでにこのことが必要で、難しい課題であるからではないでしょうか。それは2000年前から今まで続く祈りであり、だから私たちも信じて共に祈っていかねばならない、最も大切な祈りのような気がいたします。神様とイエス様の関係のその中にいさせてもらうことが許されるのは、私たちのいるところならどこでも、家庭でも、職場でも、もちろん教会においてでもですが、アジア学院もまたそうであると信じます。世界から多様な異質な人々が集まり、共に生きることを追求するという意味で、アジア学院は神様から与えられた究極の挑戦の場です。アジア学院のコミュニティで人々が幸せに生きることができるならば、きっと厳しい現実の中でも実現できるかもしれないという希望を人々に抱かせることができるのだと、神様からかけがえのない機会を与えられているのではないかと思うのです。

実は私は常々そんな感覚を覚えていました。アジア学院に務めだして間もない頃、卒業生たちがアジア学院で学ぶ最も大きなものは何なのかを、海外で卒業生に会うたびに聞いたことがありました。私はそれはある一定の時や場所で役に立つ狭い範囲での技術や知識ではないということは分かっていました。ではいったい何が、卒業生しても何年も経っても、厳しい環境の中で彼らを突き動かしているのか知りたいと思いました。もちろん、アジア学院に来る前からすでに形成されている強い使命感、召命感はあると思います。でも、例えばフィリピンで会った80歳近いカトリックのシスターに同じ質問をした時に、彼女が4時間も話し続けたのはアジア学院での時にくだらない、時にささいな楽しい思い出の数々でした。その時はなぜこの人はこんな話を永遠とするのだろうと思いましたが、後に私はそれこそが彼女がアジア学院で学んだ最大の学び、ジャン・バニエの言葉で言えば、神の「贈り物」であることに気づきました。彼は、ラルシェ共同体において必ずしも状況がよくない時でも、誰もが多少なりとも微笑んでいて、その場所のどこかに、たしかに平和がある、といいました。そしてこうも言うのです。

「しかし、それ(平和)はとてもか弱いものです。それが贈られて来るものであるからです。平和はことごとく、わたしたちの努力によってもたらされるわけではありません。わたしたちは時間をかけながら、共に生きる生活という贈り物そのものに平和があることを見て、感じ取ることができるように学んでいきます。そしてその道筋で、わたしたちはいつの間にか変えられていくのです。」

対立が絶えない地域で、自分の村も何度か襲撃を受けて、いよいよ3度目に家が焼かれて呆然とし、生きる気力もなくバスに乗っていたあたインドの卒業生が、スマートフォンにアジア学院からの来た短いメールで、生きる気力を再び取り戻したと言っていたことがありました。それは強烈な激励の言葉でも長い説教じみた言葉でもありませんでした。ただ一言、”How are you?” だったのです。でもこの一言が彼女にとっては最強のメッセージになったのです。その理由も同じです。アジア学院で平和に暮らした事実、世界中から集まった多種多様な人間が争いもなく、おいしい食事を食べて喜び、祝い、共に学んだという事実、神様からのかけがえのない贈り物を自分も確かに得た、という実感が”How are you?”という一言のメッセージを見た時によみがえったのではないかと思うのです。

 ですから、私たちはきちんと明文化された「農村指導者研修」を行うということ以上に、平和で柔和なコミュニティを築き、そこで喜び祝って共に生きることができることこそが神様の賜物であることにまず何よりも感謝していかなければならないのだと思います。このことこそが、神様が暴力の世界に生きるアジア学院に神様が見るビジョンなのではないかと思います。

 

お祈りします。

私たちは今日もどこかで銃声が鳴り響く世界に生きています。でもその中に神様が私たちと共におられることを信じます。今、この時にも暴力にさらされている人にあなたのお守りをお与えください。共にいてください。そして、あなたがお造りになった世界から暴力が取り除かれますように、私達ひとりひとりの心の中に住んでください。

そのために私たちにコミュニティをそして友をお与えください。私たちが違う人たちと出会って、対話して、私たちが自分の心の奥の「壁」に気づいて、それを取り崩して、そこにあなたがお住まいになって、私たちも愛されていることに気づいていけるように、私たちを導いてください。そのためのコミュニティであろうとする西那須野教会、アジア学院、またこの教会につながる多くのコミュニティをあなたが守り、導いてください。

主のみ名によって祈ります。 アメン