2022年4月3日西那須野教会礼拝説教 説教者:潘炯旭牧師

説教題:「自分と自分の子供たちのために泣け」、聖書:ルカによる福音書2327-31

 

主の平和が有りますように。

今週から2022年度が始まります。

総会を終え新しい役員が選ばれ新たな希望を持って新年度が始まりました。しかし耳に聞こえてくるニュースは苦しみと心痛むものばかりです。神様どうか顧みて下さいと叫びます。ただ叫び続けています。皆が世界の平和を求める事が出来ますように願い祈りましょう。

今日の聖書の個所はイエスがピラトのもとに苦しみを受けた後、十字架での死刑を受けるために自分の十字架をイエスご自身が背負って行かなければならないところ、疲れはてて十字架を背負う事が出来ないほど苦しんだので、シモンと言うキレネ人に無理やりに背負わせて行く時に、嘆き悲しむ婦人たちに向かって語った言葉です。

勿論同じ時、同じ場所で同じ事を見ていたのに、多くの人々はイエスを嘲笑し嫌がらせをしたのです。でもイエスは多くの人々には何の反応もせず、何も話さないのです。でも十字架の苦難の道を歩んでいるイエスの姿を見ていた婦人たちに、苦しみの中にあっても御言葉を与えてのです。

イエスは婦人たちを叱ったのでは無いのです。あなたたちの今の姿は間違いだと指摘しているわけでも無いのです。私のために泣くのではなく自分と自分の子供たちのために泣けと教えられたのです。今日与えられた御言葉から学ぶ事とは何ですか。

1.悲しむ人、苦しむ人に憐れみを正しく持つ事です。

十字架の苦しみの道は当然悲しい事ですが、イエスご自身は十字架の道を知って居られるのです。十字架の苦しみを終え死にますが三日目に復活なさる事、十字架の死によって全ての人々に救いの道が与えられる神様の祝福の道が完成される事を知って居られました。

でも人間の姿のイエスの苦しみを見ていた婦人たちは悲しい心で泣き続けていました。

婦人たちは今の苦しみはよく見ていましたが、明日への希望と死から勝利する復活の恵みは知らないのです。だから婦人たちは今の苦しみで絶望し、全てを失ったような心でした。

だからイエスキリストは彼らを憐れみ苦しみに中にも福音を与えられたのです。

婦人たちに教えられた福音から私たちがこのレントの時に学ぶ事とは何ですか。

婦人たちのように私たちはロシアとウクライナの間に起きている戦争の悲しみを良く見ています。ミヤンマーで貧しい農民たちを支えるための人道支援の道さえ禁止されて本当に苦しんでいる人々の叫びを聞いています。遠い所の事は知っているにも関わらず、身近に起きている貧しい人々の叫びは知らないのです。ウクライナとミヤンマーに対して憐れみを持つ事も大事な事ですが、今ここに私たちと共に居る弱い人々の悲しみに関心を持たないのなら、イエスの教えのように自分と自分の子供のために、今私たちの周りにおられる苦しみの中にいる人に憐れみの心を持って接する事が必要ではないかと思います。

今自分は平和を味わって幸せに生きる事で良いのですかと問いかける声も聞いています。

ロシア軍が戦争で多くの人々が苦しんでロシアもウクライナも両方益がなく苦しみばかりが有る事に気付く時が来るでしょうか。

戦争でロシア軍に多くの犠牲者が出たと聞いた時、良かったと思う時もあって悔い改めました。加害者も被害者も両側を顧みる心が必要です。

敵さえ愛するイエスの教えに従って、敵だから滅びれば嬉しく成るのではなく、敵さえ悔い改めて救われる道が与えられる事を心から願い求める真の神の御心をイエスの言葉から気付かされます。

なぜユダヤ人はイエスを見捨て十字架の道に追い出したのでしょうか。

なぜ政治家たちは国民の安全を無視して自分の利益のみを思うのか、悲しいですがこれが人間の罪です。相手が苦しむ事で幸せに成ろうとする悪、罪が私たちに有るのです。

この罪の問題を解決するためにイエスは苦しみの十字架の道を選び歩みました。

今レントの時イエスの苦しみの道を思いながら私たちの罪を認め悔い改めていきましょう。

2. 自分と自分の子供たちのために泣けとは何ですか

1)自分と距離が離れた方のために泣くのではなく自分と関係がある自分の事で泣く事です。

勿論婦人たちは自分ではなく相手、イエスにある苦しみを感じて悲しく泣いていました。

勿論相手の悲しみを感じて共に悲しむ事も大事な事です。婦人たちとイエスと関係がある親しい方は悲しみましたが、他の人々は喜んで見ていました。

イエスの言葉「自分と自分の子供たちのために泣け」とは自分の事と思っていない婦人たちに、これはあなたの問題ですよ、あなたが悲しむべきことですよと言っているのです。

今多くの方々はウクライナの悲惨な出来事を見ながらウクライナを攻撃しているロシアがダメだと判断し思いますが、ロシアのような姿が私たちにも有るから「あなた自身のために泣け」とイエスは言うのです。

何があったら自分ではなく相手を見て相手をいじめる恐れがあるのでしょうか。

時には心で相手をいじめたり、相手を無視したりする傾向が有ります。

今日本の場合ビザが切れて不法滞在者になった場合収容所に入れられ自由が無くなります。

ある韓国人でアメリカに移民を願いアメリカに渡りましたが永住権が取れず不法滞在者に成ってしましました。しかしようやく2018年ハーバード大学を卒業する事が出来たパクジンギュさんは卒業生代表として選ばれスピーチをする時に心を打つ言葉を語りました。たぶん日本の場合には不可能な事でしょう。

ロシア、ウクライナ、ミヤンマー等の問題ではなく今の私たちの問題、日本の問題も多く有るでしょう。収容所の問題だけではなく色んな人権問題、差別の問題、障害者の問題などが有ります。

障害者を表す英語表現はdisable person(何かが出来ない人)ともう一つの言葉はchallenged person(何かに挑戦する人)の二つがあります。

日本では障害者の反対語は健常者と言われていますが、障害者と言う言葉自体に差別が現れていると思います。英語の言い方Challenged Personと言うのが素晴らしいと思います。

西那須野教会役員に選ばれる方だけが素晴らしいのではなく、障害のある人も共に役員として働く事が出来ればと思います。私とあなたの間に壁を作るのではなく、何かあった時に自分の事として愛し合う心を教えているのではないかと思いました。

2)自分と自分の子供たちのために泣けとは、神の救いを求めて神の裁きを恐れ、救われるために泣きながら祈る事を教えているのです。

イエスは十字架の苦しみと苦難によって死にますが、三日目に復活なさいます。一粒の種が死ぬ事を泣くのではなく一粒の種が死なずに罪を知らないで生きている人々のために泣く、人々に神の裁きを見せながら、裁きの恐れから避ける事が出来るよう泣くようにと心から覚えて欲しいと教えているのです。

私たちの家族が知らない内に神の裁きを受けて永遠に裁かれる事を思うと心が辛いです。何をすればよいのか困ります。今目に見えるイエスの苦しみを見るのではなく、後から家族に来る裁きの苦しみを見て欲しいと婦人たちを導いて下さいました。

レントの時私たちに何を見て欲しいと主イエスは語り掛けているでしょうか。

何があっても私たちに問いかけている主イエスの心を思い、主に従って行きましょう。