2022年4月10日日本基督教団西那須野教会礼拝説教文 説教者:潘 炯旭教師

説教題:「私の霊を御手にゆだねます。」、聖書:ルカによる福音書23:4449

 

ハレルヤ!

皆さんが主の憐れみ深い恵みと共に居られますようにと願います。

今週は受難週です。英語ではHoly Week -聖なる週です。

来週のイースター礼拝に向けて心を準備し、主イエスの受難の恵みを深めて、自分の信仰を整えていく大事な週となります。

今年の受難週にはイエス・キリストが十字架につけられた時に語られた七つの御言葉を、毎日一つずつ深めて行きたいと思い、資料を作りました。祈りと共に十字架の苦難の時にも恵み深い主の御心を味わっていきたいと思います。

是非受難週を恵みの週として守っていきましょう。そして受難週祈祷会も計画していますので証人のためにも祈りで支え合っていきましょう。

今日の説教は十字架の上で最後に語った言葉「私の霊を御手にゆだねます」を用いて語ります。受難週を過ごす為の資料には土曜日の分てす。土曜日には今日の説教を思い出しながら復活の主イエスを心から待ち望みましょう。

「わたしの霊を御手にゆだねます」から学ぶ事は何でしょうか

1. イエスは完全に私たちと同じ人間だという事です。

教会の歴史の中でイエスとは何者なのかという議論が長く続いてきました。

イエスは私たちと同じ肉体を持った完全な人間でありながら、神聖を持って人間を超えた神です、と言う側と、イエスは我らと同じ肉体を持たない霊的な存在であり、目に見える体は本当の体ではないと言う側が有りました。これをヨハネの手紙には偽教師を示す言葉として書かれています。彼らは十字架にかけられたイエスは私たちと同じ肉の体では無いので、苦しみも痛みも感じなかったと言っていたそうです。

伝統的に我らが信じる信仰はイエスは我らと同じ肉体を持ってる完全な人間であり聖なる神であることを教え信じています。

私たちがイエスと同じ人間であるなら、私たちは肉なる体と霊と言う魂を持っている存在です。

即ち人間は肉の体と霊、魂を持っていると言われています。

肉の体に対してコリントの信徒への手紙Ⅱ 512にこう書かれています。読みますと「1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 2わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。」と書かれています。ここでの「私たち」とは何を指しているのでしょう。「私たちの地上の住みかである幕屋が滅びるのは」と書かれていますように「地上の住みかである幕屋」とは死ぬはずの体を意味しています。この住みかである幕屋が滅びるとはは死ぬ事を意味します。2節には1節と同じく「わたしたちは」と始まっています。この私たちは肉体が死んでも切に願っている事は「天から与えられる住みかを上に着たい」と書かれています。1節と2節の「私たちと」は私たちの本質の命である霊や魂を現わしています。マタイによる福音書10:28でイエス・キリストは次のようにはっきりと教えています。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と。体と魂を地獄で滅ぼされる恐れから守られ、神の国に受け入れられて、裁きから逃れる事を「救われる」と言うのです。

我ら人間は肉のみを持っている存在ではなく肉の体と霊を持っている存在ですと教えているのです。

2.「私の霊を御手にゆだねます」とは人間の姿として居られるイエスは、自分の魂を神様に委ねているのです。

神を信じるとは自分の霊、魂は自分の物ではなく神から頂いた物なので神に返しますと認め、宣言しる事です。

礼拝の献金の祈りの時に多くの方々が「頂いた物を神にお返しいたします」とお祈りしています。皆がそのように祈るからと言って、ただ祈りの言葉をまねて祈るのですか。自分の信仰告白として祈っていますか。

人間として来られたイエスは最後の時、死ぬ時に「私の霊を御手に委ねます」と言いました。

霊とは神が最初の人間アダムを創造された時、塵で形、即ち体を作り、鼻に命を吹き入れて人間を創った時に授かったものです。そしてコへレトの言葉12:7には「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」と書かれています。

今私たちは多く持ってますが、私たちが持ってる物の中で本当に私たちの物とは何でしょうか。実は今私たちにある全ての物は一つでも私の物ではなく与えられた物なのです。毎日食事を頂くために頂きますと言います。頂いた事から命が守られているのなら私の物は私たちには一つも無いのです。一番大事な命は神から与えられた物です。それで完全な人間としてイエスは御手に委ねますと告白しているのです。

今の世界で一番の問題は自分の物では無い物を自分の物にする事です。

神に属している命を自分が勝手に自分の物としているのです。戦争も戦いも紛争の底には神の物を自分の物としてしまう事から始まっているのです。相手の命を自分のように勝手に奪い取る事の殺す事は絶対やってはいけない事です。311の時、放射性物質に汚染された時に、自然の麗しい物を壊し、次の世代に悪い放射性物質を押し付けるかと思うと辛い、との声が高まった事も有りましたが、今は時間が過ぎて多くの人々は忘れてしまっている事に気付きます。

レンタカーを借りる時には車の現状の状態をお互いに確認し、返す時に、必ず借りる前の同じ状態である事をチェックします。イエス・キリストは最後の時に神様に委ねます、とは預かった霊、魂を大事にして守り今返しますという事です。

イエスの姿を見ると与えられた命を神様の御心に従って生き、自分の役割を終え返しますという意味になるのです。借りたレンタカーを壊して次の人を邪魔するように恥を感じながら返す姿にはならないように、神の物を神に返す心を持って、私たちの人生も与えられた事に感謝し、全ての物を大事にして行い正しき神に返す信仰を持っていきましょう。

「霊を神にゆだねます」という言葉から学ぶ事とは何でしょうか。

3.委ねる事で平安を持ち、安らぎを味わうのです。

イエスキリストは「霊を神にゆだねます」こう言って息を引き取られたと46節に書かれています。

聖書の多くの所で死ぬ事を眠ると言っています。ルカによる福音書8:52にはヤイロの娘の死を眠っていると書かれています。「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」と。ラザロの死についてもイエスは「わたしたちの友ラザロが眠っている。」と言ったとヨハネによる福音書1111に書かれています。又使徒言行録760に「それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」と書いてあります。眠るという言葉を表すのに色んな言葉が有りますが、私は「安らぎを得る」という言葉を使いたいと思います。神に委ねる事で真の眠り、安らぎを得ます。心がイライラする理由は委ねる事が出来なくなり、安らぎから遠く離れているからです。

神に委ねて息を引き取り、安らぎを得たのです。イエスは一番大事な霊も神に委ねて安らぎに付いたのです。受難週を過ごしながら神に委ねて生きる信仰を確かめていきましょう。

十字架の道を歩んだイエスキリストは私たちにも話しかけているのです。神に委ねて生きなさいと、私も神に委ねる事で安らぎを得たのですと語って下さいます。

このイエスキリストの姿に学んだステファノも使徒言行録759節にこのように言っています。読みます。「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。」

毎日全ての事を神に委ねて生き、変わらない恵みに生かされていきましょう。

霊を神に委ねる事で真の安らぎを得ていきましょう。一日の生活を終える時に今日の私の霊を神様あなた様に委ねますと祈りながら一日を締めの言葉として告白できますように願います。