022年4月17(イースター礼拝)西那須野教会説教文説教者:潘 炯旭牧師

説教題:「あの方は、ここにはおられない。」、聖書:ルカによる福音書2419

 

イースターおめでとうございます!

主イエスは蘇られました。マラナタの主を賛美します。私たちに復活の祝福を与えて下さった神に感謝しましょう。

今年の教会の主題は「心休まる教会」としました。

心休まる教会の源は復活の福音にあります。「死んでも生きる」復活の力強い福音の恵みに生かされて生きる事で真の心の安らぎを得るのです。

コロナウィルスの事で皆が疲れています。年月が過ぎて体が衰えてくると心に喜びが消えてしまいがちですが、復活の主イエスは私たちに新たな希望と恵みを与えて下さいますので、主の恵みによって希望を持って生きていくことが出来ます。

今日の聖書の個所は、婦人たちが十字架につけられて死んで葬られたイエスの遺体を探していた出来事の個所です。

苦しみと嘆きに満ちた悲しい女たちはイエスのために香料を持って墓に行ってみると、墓に置いた大きな石が墓のわきに転がされているのを見て不思議に思ったことでしょう。

婦人たちは墓に入ってイエスの遺体を探しましたが、見当たらなので途方にくれていたと4節に書かれています。お墓に行って墓にいるはずの遺体が見当たらないとしたら如何でしょう。

勿論イエスの時代の葬儀と今の日本の葬儀は異なっています。当時はお墓に行って遺体に会うことが出来ました。墓に遺体が無いのは驚くべき恐ろしい事でした。ですから婦人たちは頭が真っ白になりました。

その時、輝く衣を着た二人の人が現れ、婦人たちは地に顔を伏せたと書かれていますがびっくりして地面に倒れたのでは無いでしょうか。

二人の人の事をマタイによる福音書2827では天使と書かれています。今日の聖書の個所5~6節には二人の人がこう話しかけています。「なぜ、生きておられる方を死者の中から探すのか。ここにはおられない。復活なさったのだ」と。

ここで一つの質問が有ります。

「皆さんが探しているイエスはどこに居られるのですか。」。

婦人たちは自分の経験と頭で思うイエスを探していたのです。婦人たちが見た死んでいたイエスを探していたのです。三日目に復活するとの約束を思わなかったのです。

ただ婦人たちが普通の人と同じようにイエスの遺体に香料をぬる事ばかり思っていたので、遺体が見当たらなくてパニックに成りました。

皆さんが探すイエスは復活のイエスですか。救い主のイエスですか。偉大な先生ですか。素晴らしいメッセジーを語られる方ですか。色んな奇跡を行った、ただ驚くべき人間のイエスですか。

もしかしたら婦人たちのように皆さんが探しているイエスはここにはいないかもしれません。

婦人たちが探したイエスは苦しみの時を終え墓に葬られた遺体のイエスでした。

もし私たちが自分の経験や知識に当てはめてイエスを探すと見当たらないのです。皆さんが探すところには居ないからです。

全ての重荷から解放され、真の休みを与えて下さるお方として探すならば、必ずイエスに出会います。イエスに出会った事がないのなら求め方を変え、命の主、死んでも生きる復活の主を求めて探すならば必ず出会います。

真の命であり、生きた水を探すのでなく、ただこの世の富を求めているなら「ここにはおられない」と言われるでしょう。

5節の御言葉をもう一度読みますと「婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」と書かれています。

40日間断食していたイエスに悪魔が近づき、これらの石がパンに成るように命じたらどうだと誘惑した時に、人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つの言葉で生きるとイエスは答えて誘惑に落ち入ることはありませんでした。世の富を求め、自分のためにパンを求めているならば、そこには復活の主であるイエスはおられないのです。

皆さんが何を今日のイースター礼拝に求めているのでしょうか。この世の幸せではなく、生きた命を、水を求めていますか。悲しみや苦しみの暗闇の中で光り輝く真の安らぎを与える復活の主キリストを求め探すなら、今も生きている主イエスに出会い、苦しみの中にも永遠に変わらない喜びを味わいます。

何時も求めている事は何ですか。世にある物ですか。今皆さんに役に立つ事ですか。

今私たちが探さなければならない事はイエスの遺体ではなく復活なさったイエス・キリストです。死んで墓に葬られた方ではなく、生きておられる方、蘇り復活されたイエス・キリストです。

イエス誕生の知らせは天使が告げました。

イエス復活の知らせも天使から婦人たちに告げられたのです。

2022年にいる私たちは、イエスの復活の知らせを、それを実際に見て聞いて教えた人々の口から始まった記録として残された聖書から聞きます。

マタイによる福音書28:2節では天使がマリアたちに復活の知らせを告げていますが、ルカによる福音書の今日の聖書個所は天使ではなく人と書かれています。なぜルカは天使では無く人という言葉を使ったのか面白いと思います。私が天国に行った時にルカに理由は何ですかと聞きたいです。多くの人々はマタイによる福音書で書かれたように、ルカによる福音書の二人の人を天使と理解しますが、ルカはわざわざ二人の人と書いたのです。旧約時代には多く天使が現れましたが、新約時代にはあまり天使を見たと語る人が少ないのが事実です。

わたしは天使を見た事は無いのですが、天使のように私に関わってくださった多くの人に出会いました。

いま私たちの目を上げ、私たちに送って下さった天使のような人々を見る事も大事ではないのかと思います。

私たちの主イエスは死んでこの世から消え去ったのではなく、今も生きておられる神です。復活の主として今も私たちと共に居られます。

これが復活の大きな福音です。

天使は婦人たちに6節で教えました。「6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」と。

婦人たちに必要な事はイエスの話を思い出す事でした。

イエスは「私は復活であり、命である。」と語り、ヨハネに1426で「あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」とイエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」など多くの約束の言葉を与えました。初めの弟子たちと夫人たちのように、神の約束を聞いたがその約束の言葉を理解出来なくなりましたが、復活のイエスに出会い、ペンテコステの時に聖霊によって全ての事を理解出来るようになりました。まず神様のお告げ「お話しになったことを思い出しなさい。」のように「神の御心を知るために、神の約束を知るために聖書を開き、御言葉を思い出す事が出来るように求め、その約束を信じて従い、恐れるのではなく感謝して共に生きましょう。私たちの主イエスは復活なさって今も私たちと共に居られます。