2022年5月1日西那須野教会礼拝説教文 説教者:潘 炯旭牧師

説教題:心休まる教会 聖書:マタイによる福音書1128

 

ハレルヤ!主の平和が有りますように。

大型連休に入りました。5月になると子供の日や母の日を覚えます。

田んぼには水が入り田植えが始まって、冬とは違う風景にワキワキする気持ちに成ります。

アジア学院には新しい学生が与えられ、嬉しさで興奮した職員たちの顔も見えます。

今年は4月にイースター礼拝も有り、2022年度の主題を『心休まる教会』として総会に出した事に付いて語る時間が無かったので、今日は今年の皆が目指して歩むヴィジョンを分かち合っていきたいと思います。

2022年は2023年の西那須野教会創立130周年の準備をする年になります。今までの歩みを振り返って見ながら、これからの西那須野教会の歩みを整え、新たな志を確かめる事が大事なことになります。

今日の聖書の個所、2022年度の主題聖句から学ぶ事は何ですか。

真の休みはイエス・キリストから来ます。

私たちは休みを求めています。特に戦争の時には平和と言う休みを望みます。何の苦しみも無く幸せに生きている人はこの世には一人もいないのが事実です。

聖書の中で一番幸せに見える方はソロモン王かも知れません。

彼はコへレトの言葉2410でこう言います。「4大規模にことを起こし/多くの屋敷を構え、庭園や果樹園を数々造らせ/さまざまの果樹を植えさせた。買い入れた男女の奴隷に加えて/かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く/牛や羊と共に財産として所有した。金銀を蓄え国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさってわたしは大いなるものとなり、栄えた。目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ/どのような快楽をも余さず試みた。」が結果は空しい事だと言うのです。幸せを望み多く頑張りましたが、幸せではなく空しくなったと告白しています。コへレトの言葉121には「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。」そして1213には「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。

イエスキリストはヨハネによる福音書1427で「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と真の休みは主なる神から来ることを教えています。この世には無いのです。人間の力では出来ないのです。イエスキリストの招きに答えて信じ重荷を下ろす事で休みを味わった証人が多くいます。私たちも何時も経験している事でしょう。

真の休みを味わうために必要な事とは何ですか。

1.疲れていること、重荷を背負っている事を認めることです。

主イエスは「疲れた者、重荷を背負っている人」に声をかけています。「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と。

勿論人間として自分の事は誰にも頼らないで頑張ろうと強い志を持つ事も良い事でしょう。

男として自分の力で生きると言いますが、何時まで疲れた事、重荷を負って苦しんでいる事を自分自身に隠す事が出来ますか。その時はしょうがないと諦めてしまうのですか。

もしその時、疲れて苦しんでいる時に自分の事をあるがままに認め神様の招きに従って休みを得る事が出来れば、もっと幸せに生き、平安と共に生きることが出来るでしょう。

今の多くの人々は自分の力と能力で頑張ろうとして倒れてしまい苦しむ人々が多くいます。

疲れて重荷を負って苦しんでいる事は恥じでは無いのです。自分の弱さを認め、私たちを招いて下さった主イエスを覚え、イエス・キリストの招きに答える事で神の業が経験できるのです。

全ての重荷を自分が背負って休む事が出来ず震えている姿を見ると悲しくなりますが、その時こそ私たちを招いて下さる主なる神を覚えましょう。

では真の休みを味わうために必要な事とは何でしょうか。

2. 主イエスは全ての人を招いて下さる事を信じることです。

「誰でもわたしのもとに来なさい」という招きは誰でも、即ち全ての人に向けた言葉です。

信じるか信じないかを問わず、善い人か悪い人かも問わず、誰でも全ての人、つまりここに集まった皆さんを含め皆さんの家族、同僚、隣人を含め、この世の全ての人々に素晴らしい真の休みを与えるために招いて下さっている事を覚えて欲しいのです。

詩編には「主は我が避け所」という言葉が9回書かれています。避け所に、真の休みに、招いて下さる主なるお方が居られます。その恵みを頂くのに厳しい条件など要求していないのです。試験を受けて合格出来すれば得る事でも無く、何かを支払う事もなく、本当にあるがまま、神の招きを信じ、受け入れる事で与えられるのです。

イザヤ書5513「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。2なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。3耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちと永久の契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。」と招いて下さっています。この招きは、心を込めて切に願うことで私たちを招いて下さるのです。

神の招きに答え休みを得るために必要な事は、神の招きに答え神様の所に行く事です。

イエスの所に行くとはどういうことでしょうか。如何すれば神の所に行く事が出来ますか。

車で長く運転する時、疲れたら道の駅等を探して休みます。時には探しても見当たらない時が有ります。特に渋滞になった場合には近くに休む所が有ると知っていても、渋滞で動かないと困る時も有ります。人生の苦しみの時に休める所が見当たらないと本当に困ります。でも休みを与えるイエスの所に行く事は何時でもどこでも出来るのです。イエスの名を呼び、祈る事で休む事が出来ます。

私は携帯を失くして困った事が有りました。もし私が祈る事を知らなくて、神に委ねる事を知らなかったとしたら、如何なっていたことでしょう。でも私は神を知り、信じ、神の招きの思いがけない恵みを受けていることを知っているからこそ安心して生きていけるのです。

私はいつも神を信じて良かったと思います。祈る事が出来て良かったと何時も思っています。

最後ですが「心休まる教会」として如何したらよいと皆さんは思いますか。

教会が困っている人々にとって心を休める事が出来る場所として守る事です。

誰でも何が有っても教会に足を運ぶ事が出来る、恵みと喜びに溢れる場所として教会を守る事です。困っている人々に良い教えが出来る立派な先生の姿ではなく、共に側に居て共に泣き、静かに側で一時を共にする事が出来ればこれで十分だと思います。

私たちがイエスの代わりになり、神の愛を分かち合って神に出会う場所として生きる事です。

1週間の疲れと苦しみから癒され、平安と希望と喜びに満たされて神の愛に生かされて生きる事が出来るように神に祈り、何事も神に委ね、感謝と共に生きましょう。