2022年3月27日西那須野教会礼拝説教文。説教者:潘 炯旭牧師
説教題:「喜びを持って生きよう」、聖書:フィリピの信徒への手紙4:4
ハレルヤ!主の平和が有りますように。隣の方と笑顔で声を出さず挨拶しましょう。
今日は2021年度の最後の主日です。
今日の説教題は2021年度の教会の主題「喜びを持って生きよう」です。
一年間コロナ禍の厳しい状況でも、心には喜びを持って生きたいとの思いで祈りと共に立てました。
詩編23篇1節には「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。」と書かれていますが、私たちの生活で何も欠けることなく喜びを持って生きる事は可能でしょうか。
聖書の御言葉ですから、当然、聖書の答えは可能ですと言います。
私は2021年度の主題を常に思い説教の言葉として語ってきました。
皆さんは教会の主題に沿って行きたいと思いと共に歩めたでしょうか。
一年の歩みを振り返って見るだけではなく、これからの歩みも喜びを持って行こうとの志を持って生きる事が出来ればと願います。
喜びを持って生きることが本当に出来るでしょうか。
聖書は語ります。喜びを持って生きる道を教えています。
私たちが持ってる力では出来なくても神の助けと恵みによって出来るのです。詩編のダビデの告白のように主なる神が私の羊飼いならば何も欠けることなく感謝と、喜びと共に生きる事が出来ると教えているのです。
信仰によって喜びを持って生きるのです。
天地創造の神を主として信じる事には思いがけない大きな恵みがあります。
先週から「こころの友」と「信徒の友」の月刊誌を新たに読んで見ましょうと呼びかけをしていますが「こころの友」4月の4面には富弘さんの詩画が紹介されています。読みます。
「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった
命より大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった。」と
皆さんがご存知のように、富弘先生は突然のけがによって20代の時手足の自由を失い苦しみの生活が始まりました。しかし信仰に導かれ暗闇の中にも希望のメッセージを語り続けてこられました。詩と絵の活動によって多くの人々を勇気付けて大きな影響を与えて来た方です。
もう一度読みます。
「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった
命より大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった。」
自分の苦しみと暗闇ばかりを思っていた時には生きる事が苦しかったのです。しかし命より大切なものがあると知った時に、苦しみの生活の中にも嬉しいことがあり、生きる力に導かれて生きる事が出来ると詩は語りかけているのです。
皆さんにとって嬉しい事とは何ですか。喜びとして思う事とは何ですか。
世にある物ですか、今目に見える物ですか、今体で感じる物ですか、便利さを与えている事ですか。
今の事ですか。或は今ではなく後に与えられる約束された事ですか。
信仰によって味わう喜びとはかけがえのない事でしょう。
今、目に見える物、今手にある物は永遠に至る真の喜びと希望には成れないのです。
信仰とは何ですか。
信仰は信じる事です、認める事、委ねる事、信頼する事です。
皆さんは神を信じているでしょう。
なぜ神を信じる事で喜びを持って生きることが出来るのでしょうか。
神を信じると勇気を持って生きる事が出来ます。
サムエル記上17章を見るとダビデとゴリアテの戦いが記されています。皆さんがご存知のようにゴリアテは巨人であり、キャリアもあり、戦争の場で負けた事の無い方でした。イスラエルの兵士たちはゴリアテの名前を聞くだけで17:24に「イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた。」とあります。でも少年ダビデは17:36~37「わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」 37ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」とペリシティ人を恐れないで勇気をもって戦って勝利を得ました。
イスラエル全体は恐れましたが、一人ダビデは信仰を持って恐れないで立ちました。勿論このダビデのような信仰を持つ事は難しいかも知れませんが、その時御言葉に励まされて信仰に立つように祈りながら生きると、信仰によって恐れないで生きる事が出来るでしょう。
私たちの信仰の先輩たちは信仰によって恐れることなく信仰に立って信仰を守ってきたに違いないのです。もう1か所の聖書の言葉を紹介します。
列王記下6:13~17「アラムの王は言った。「行って、彼がどこにいるのか、見て来るのだ。わたしは彼を捕らえに人を送る。」こうして王に、「彼はドタンにいる」という知らせがもたらされた。 14王は、軍馬、戦車、それに大軍をそこに差し向けた。彼らは夜中に到着し、その町を包囲した。
15神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」 16するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、 17主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。」と書かれています。
今、目に見える物ではなく信仰の目で神の業を見たエリシャは恐れないのです。でもエリシャの召し使いは朝早く起きて外に出てみると、軍隊が町を包囲していたのでて「どうすればいいのですか。」と恐ろしく耐えられなかったことでしょう。エリシャの祈りで召し使いの目が開き神の業を見た時安心しましたと書かれています。信じる心で神の御業を見るように神を信じて行きましょう。
今、目に見える事のみを見るのではなく信仰を持って神の業が有る事を信じ神に委ねて生きましょう。神に従って行きましょう。
信じるとは認める事です。自分の弱さを認め、自分の罪を認め、全ての事を神に委ねて生きる事です。信じて委ねて生きると心の平安を持ちます。自分の苦しみ、悩みを神に委ねると苦しみから解放されるのです。神を信頼するから何があっても安心して心の平安を味わう事が出来るのです。ですからダビデは「主は羊飼い、私には何も欠ける事が無い」と宣言しているのです。
喜びを持って生きるには信仰が弱いと思いますか。命のパンである霊の糧である御言葉、聖書の御言葉を頂くために礼拝を守り、霊の糧として御言葉を求めて生きましょう。
何よりも聖書の御言葉と賛美と共に歩みましょう。
悩み苦しみと重荷は主イエス・キリストに委ねて、自分が置かれたこの地で与えられた事を感謝しつつ行い生きると、喜びを持って生きることが出来るのです。
神様は必ず皆さんと共に居られます。詩編121:2~8節の御言葉「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。3どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。4見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。5主はあなたを見守る方/ あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。6昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。8あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」との御言葉に励まされて信じて行きましょう。