2022年4月24日アジア学院サンデー礼拝説教文説教者:ティモシー・アパウ牧師
説教題:『忘れるべきでない年』聖書:ヘブライ人への手紙4:8~13
先日、執り行われましたアジア学院の入学式の中で、校長の荒川がアジア学院が今年で創立50周年を迎えることにちなみ「聖なる年、ヨベルの年」について話をし、「私たちにとってヨベルの年とは何か」と問いかけました。
アジア学院を通じて世のため人のために奉仕する機会を得ることができた私たち現職員は、50年前を振り返り、アジア学院創設時のメンバー、職員や支援者の方々に感謝すべきだと思います。私がここにいられるのは、彼らが懸命に尽力されたおかげだからです。
当時の福本牧師、郡司さんと郡司さんのお母さまをはじめ、多くの人が時間とお金を費やし、献身的にはたらかれた結果、アジアで、そして地球上で唯一の素晴らしい学びの場を建てることができたのです。
アジア学院創設者の高見先生は、平和と和解、人間の魂の赦しと救済という理念をお持ちだったのではないかと思います。
ある時高見先生はこう語られました。「アジアで最も弱い立場にあり、食料を生産しているにもかかわらず、自分たち自身が食べられない状況にある農民たちと生活を共にすることが、日本にいる私たちを救いへと導き、やがてすべての人とともに生きることを可能にするのだ」。この信念のもと、私たちはモットーを掲げてアジア学院を運営しています。
つまり、「食べものといのちの両方を大切にする世の中にしよう。そのために農村のリーダーを育てよう。共に生きるために」。
しかし、ヨベルの年はイスラエルの人々だけに与えられ、レビ記の25章全体がヨベルの年をどのように祝うべきかについて記されています。
ヨベルの年は彼らにとってたいへん重要なことで、労働を休止し、生活困窮者や奴隷、そして借金を抱えている人たちを解放したのです。
現在において、ヨベルの年というのは、キリスト教徒を拘束するものではないようです。しかし、新約聖書の赦しと贖いに関する教えを美しく描き出しているように思えるのです。
高見牧師とそのご友人の方々、そしてアジア学院の設立を支援された方々は、アジア諸国の人たちが、日本人(後にアフリカ人も含む)と一緒に暮らすことによって、良い関係を築けるようにしたいと考えたのだと私は思うのです。
マシュー・ヘンリーは、その注解書の中で、「私たちの贖い主であるキリストは、奴隷や罪人を解放するために来られました。彼は盲人に視力を回復させるために来られ、主の恩恵の年を宣言されたのです。
私たち罪なる人が主なる神に対して負っている罪の負債は、イエス様が私たちの代わりに十字架の上で死んでくださり、その血潮によって私たちは永遠の赦しを得たのです。
私たちはもはや束縛の中にいるのではなく、キリストによって解放されたのであり、もはや罪の奴隷ではなく、クリスチャンは主からいただく安息の中に入ることができるのです。
今、私たちは、自らの行いによって神に受け入れてもらえるよう努力するのをやめることができます。なぜなら、ヘブル人への手紙4章8節から13節にあるように、キリストが神の民を赦してくださったからです。
ヨベルの年の決まりよる休息とその必要性から、クリスチャンは休息を取ることを真剣に考えなければなりません。日本も含め、世界的にワーカホリック(仕事中毒)が問題になっています。
しかし、私たちが仕事を第一義としたり、仕事に限らず何でも一生懸命やれば、私たちは自分の思い描く必要を必ず満たすことができると考えることを、主は望んでおられないと私は信じています。
同じ理由で、主は私たちが通信機器から離れることを望んでおられます。時には、インターネットを介するソーシャルメディアやコンピューターなどの機器から離れて、主を礼拝し、人々のために祈り、神の言葉を学ぶことにその時間をかけても良いはずです。
神さまは私たちに、お金に注目するのではなく、主に注目するようにと言われているのです。私たちにとってヨベルの年というのは、私たちの人生における一日、ひと月、そして一年の中にある一瞬一瞬を主に信頼しながら過ごしていく必要性を強調しているのです。
私たちクリスチャンは、全生涯を主に捧げ、主と隣人に仕えるべきであり、それがヨベルの年の大きな目標です。一人一人が心穏やかに休息をとり、他人を赦し、主を信頼することを目指すのです。
安息はイスラエルの生活において不可欠な聖書のテーマであります。安息とは荒野での放浪が終わり、敵に囲まれても安心できるようになったことを意味します。
ヘブライ人への手紙の著者は、主が私たちに与えてくださった安息の地に入るようクリスチャンを励ましています。詩篇95編7節から11節からはイスラエルの先祖が荒野で行ったように、心を頑なにしてはいけないという警告を読み取ることができます。その結果、彼らは約束された憩いの地に入ることができなかったのです。
マタイによる福音書11章28節でイエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言いました。これこそが、不安の真っ只中にある人生であっても、クリスチャンがキリストに安らぎを見いだし、経験することができる安息なのです。
ヨベルの年とは、罪が赦され、万民が解放される特別な年である。レビ記には、50年ごとに起こるヨベルの年について記されており、聖別されるヨベルの年は奴隷や囚人が解放され、借金が赦され、神の慈悲が明らかにされるとあります。
私たちが自分の心の中に囚われている人々を解放し、赦すことができるように祈ります。なぜなら、私たちはキリストが日々与えてくださる安息のときを穏やかに過ごす必要があるからです。
お祈りします。