2025年5月18日西那須野教会礼拝説教文説教者:潘 炯旭牧師

説教題:『誘惑に打ち勝つ信仰』    聖書:ルカによる福音書 4章1~13節

 

主の平和が有りますように。

今日神様の素晴らしい恵みに満たされますようにと願います。

隣の人と平和の挨拶をしましょう。「主の平和が有りますように。」

今日の聖書の個所にはイエス様が聖霊に導かれて悪魔から誘惑を受けられた時の教えが記されています。

13節の最後の言葉は「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」と書かれています。
イエスキリストの姿から学ぶ信仰の大事な教えとは何ですか。


1.イエスが受けた悪魔からの誘惑に打ち勝つ事で神の業が始められたのです。

聖霊に満たされてから荒れ野に導かれてそこで悪魔の誘惑に出会ったのです。

1節の聖句をリビングバイブル訳ではこのように訳されています。読みます。「1さて、イエスは聖霊に 満たされ、ヨルダン川をあとにすると、聖霊に導かれるまま、ユダヤの荒野に向かわれました。」

車の運転を始めるためには必ず運転免許の試験を受けて合格して運転免許証を獲得しないと出来 ません。でもヤコブの手紙には、神様は神様を信じる人を誘惑することがないと教えています。例えば私たちが包丁で指を傷つけたら痛みを感じます。倒れて頭をぶつけたら痛くなります。痛みを 感じるからケガをしないように気を付けます。相手から殴られたら痛く感じるから、自分が相手を殴る事は良くないと感じるのです。 もし怪我が有っても痛みを感じることが出来ないと人間は死にます。病気になって体が感じるから気を付けます。 でもある病気は症状を感じず痛みを感じないから病の症状が出た時には手遅れとなり大変な事になります。 敏感に痛みを感じると直ぐに守るように気を付けます。 悪魔の誘惑が有っても敏感に感じることが出来ないと大変なことが起きます。

聖霊に導かれて悪魔の誘惑が有った時に敏感に感じることが出来私たちの信仰を守ることが出来る ように心を神様に向けて生きましょう

ヤコプの手紙1:13「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。 神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」でも聖書を開いて見ますと初めの人間アダムと女に知識の木の実を食べてはいけないと言われていたのに、誘惑を受けてしまいました。 残念ながら初めの人は誘惑に負けて罪を犯してしまったのです。 信仰の父と呼ばれるアブラハムに神様は100歳で得たイサクを愛するのか、神様の言葉に従って神を選び自分の息子イサクを生贄として捧げるのかの試練を与えたのです。 この試練の誘惑に打ち勝つ事で、アプラハムは神を選び救いの道に導かれた見本になりました。 イザヤ書48:10「見よ、わたしは火をもってお前を練るが/銀としてではない。わたしは苦しみの炉でお前を試みる。」
試練、苦しみの炉で試みる荒れ野を超えてから神様の御手に使わされるのです。

愛の深い神様なのになぜ自分の子供として受け入れてから苦しみの炉で試すのでしょうか。 モーセも、ダビデも、使徒たちも、使徒パウロも、苦しみの炉の試みを通じて神の業を行うようになりました。コリントの信徒への手紙110:13「13あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。 神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」そしてイエスキリストには最後の試練として苦難の十字架の死が与えられたのです。 でもイエスキリストは最後の試練である苦しみの死に向って絶望せず大胆に歩み終えて復活の最後の勝利を見せてくださいました。
私たちにどんな苦しみや悩みの時が近づいても、落胆せず信仰を持って休まず信仰への道に留まって生きましょう。


2.イエスキリストは全ての誘惑から打ち勝ち勝利を得たのです。

2節~12節の二つの誘惑が有りましたがこの二つの事を一つの言葉で要約すると自分を捨てて、自分の十字架を背負って歩むことを意味します。 誘惑に負けることなく勝利する力は神様の御言葉に従う事でした。 今週の聖書通読会で読んだ歴代誌上13章では神の箱をエルサレムに運ぶために新しい車に載せて運ぼうとして失敗しました。 失敗の原因が神様の教えに反したことに気づき14章13節では「13最初のときにはあなたたちがいなかったので、わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた。 わたしたちが法に従って主を求めなかったからである。」と神様の正しい教えに従って自分の経験、知識などを捨てて、神様の御心にある物は何かを再度確認しながら確かめて、神の箱をエルサレムに運び入れることが出来たという箇所を読みました。 どう誘惑されてもイエスキリストは神様の教えとは何かを問いかけ、神様の教えに従って生きる事で誘惑から打ち勝ち勝利で終えました。

マタイによる福音書16:24~ 25「イエスは振り向いてペトロに言われた。 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。 神のことを思わず、人間のことを思っている。」24それから、弟子たちに言われた。 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」 使徒パウロは神の業を全うできることを願い日々死んでいますとコリントの信徒への手紙1 15:31節に告白しています。

子供の時に養蚕の手伝いしたことが思い出されます。 蚕は良く桑の木の葉っぱを食べます。でもたまに静かになります。動かないのです。 時間が立つと脱皮していて一日で大きく成ったことが分かります。 自分の皮を脱ぐことが出来ないと死にます。 新たにされることは死なないと出来ないのです。

イエスキリストが十字架に自分自身を張り付けて神様の御心にかなったように、私たちもイエスキリストに見習って悪魔の誘惑に打ち勝つ事を願い、自分の計画、考え、意思、経験を捨てて神様の教えに従う事を通して日々成長して生きる事を心にとめて生きませんか。

今の世界の問題、戦争や争いの原因は自分の利益のみを望み、相手が持っている物を奪いたいと思うから世界は光を失って暗くなっているのです。

イエス様が十字架への道を逃げることなくまっすぐに歩み終え死ぬ事で復活の恵みへの道に導かれたように、私たちも信仰によって誘惑に打ち勝ち、信仰に立って進みましょう。