2025年6月1日西那須野教会礼拝説教文説教者:潘 炯旭牧師
説教題:『またおいでになる』 聖書:使徒言行録 1章6~11節
ハレルヤ!主の平和が有りますようにと挨拶しましょう。「キリストの平和が有りますように」
来週はペンテコステの日です。イエスキリストがヨハネによる福音書14章26節に約束した聖霊が実際に与えられ、今もイエスキリストの約束は私たちに恵みの言葉として生きています。
イエスキリストの約束の言葉を読みます。ヨハネによる福音書14章16節,17節,2節「16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。26しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
今日の聖書の御言葉で二つの事が教えられています。
一つは先ほど申しました精霊を下さる事ともう一つは11節の「またおいでになる」ことです。
復活節に忘れてはいけない事はイエスの復活とまたおいでになるという事です。
イエスの弟子たちにとって一番悔しい事は、イエスが見捨てられて十字架で死に、三日目に復活するという事を理解できなかったことでしょう。
エルサレムに向かって行くイエスの姿を見ながら、ヘロデ王を追い出してイエスがイスラエルの王になりローマの植民地から独立して新たな王国を作る事のみを考えていた弟子たちでした。しかし復活の出来事を見てイエスキリストが教えていた言葉が何一つ嘘ではなく必ず実現するのだという事が分かり信じたのです。
ですから弟子たちと初代キリスト者たちは再び来られる言葉を信じて何が有っても揺らぐことなく信じ続けたのです。
イエスが雲に覆われて天に上げられたのを自分の目で見た弟子たちは、教えに従ってエルサレムを離れず集まって約束なさった聖霊を待ち望みながら祈っていたのです。
ペンテコステの出来事を経験できたクリスチャンたちは何よりも強くイエスキリストの教えに従って福音を宣べ伝え、今日に至りました。
弟子たちは自分たちの体でイエスキリストの復活の出来事を感じ、自分の目の前に十字架の上で死んだのに約束通りに三日目に墓から蘇って天に昇って行くイエスの姿の証人となったのです。
死んだのに復活なさった事、目の前で雲に覆われて天にあげられた事の証しとして聖書の御言葉に出会っています。
この主イエスの教えは父なる神様は愛の神様であってイエスの死によって私たちの罪が赦されて永遠の命を得る救いを与えて下さった事、イエスの復活の出来事と同じように私たちの復活の日が後から来ること、そしてまたおいでになる時に私たちもイエスが天に上げられたのと同じように天に上げられる日が来ることを、皆さんは信じていますか。今信じているのかと問いかけられたら、皆さんは如何答えますか。
2+2が4になる事や、お米の種を蒔いてお米を収穫する事を信じるのは信仰ではなく知識です。
天の神様は天地の創造の神、恵み深い愛の神様であることを示すために独り子イエスをこの世に送られたこと、死に葬られてから復活為さった事、救い主であり、世の終わりまで共に居られる事、いつくしみ深き我らのともなるイエスが何時も我らを導く良い羊飼いである事を認める事は難しい事かもしれません。
でも苦しみや悩みの時に、分からない内に風が吹いたかのように心の悩みと苦しみから解放されて心に平安が与えられ、心を支えて下さる御言葉に出会って平安な夜を迎える事が出来た時には、神は本当にいつくしみ深い神であることを感じ感謝の祈りを捧げることでしょう。
今私たちは聖書の言葉を読んだり聞いたりする事で、弟子たちに教えられた言葉に、イエスの言葉に出会います。
では、またおいでになるとはどうゆう事でしょうか。
今は迫害されて人々から見捨てられ全てを失って世界で一番悲しい者とされても、またイエスキリストがおいでになった時に私たちの信仰が認められ勝利を得て、一番小さい人にされましたが神様の報われた恵みによって何も欠けた事の無い人に逆転出来る事になるのです。
今は悩みの中に居ますが、再びイエスキリストが来られた時には喜びの感謝に溢れて全てを手に入れたように満足できる永遠の命に預かるのです。
今はイエスをキリストとして信じ御言葉に従って生きる事で、たとえ世の光として暗闇の中で光を照らすために犠牲を伴っても、またおいでになるイエスキリストの招きによって多くの実を結び、小さい事に忠実であった僕よ私と共に喜びの座に居なさいと、主の愛に満たされる時が来る希望を持って生きる事が出来るのです。
「またおいでになる」という御言葉を信じ従ったパウロはこう告白しています。
コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1~10節「1わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 2なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 3わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、 4あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 5鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、 6純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 7真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、 8栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 9人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 10悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」
「またおいでになる」とは私たちには希望の言葉です。
「またおいでになる」とは信仰を持った人々には苦しみを乗り越える力の言葉となります。
「またおいでになる」とは後ろ向きの生活ではなく、救い主なる主イエスキリストに向かう前向きの信仰に繋がります。
「またおいでになる」との御言葉に励まされ、十字架の弱さを乗り越えて御言葉を信じ従う信仰に導かれて、ペンテコステの時を迎えることが出来、どんな迫害の環境でも信仰を守ることが出来るように守って下さる力強い御言葉です。
今も私たちにも同じ約束の言葉を与えてくださいました。信じて生きましょう。
説教の締めとして讃美歌1-312番を讃美します。いつくしみ深き友なるイエスよ。