説教題:正しい行動は何か
聖書:ルカによる福音書 6:6~11
主の平和が有りますようにと挨拶を交わしましょう。『主の平和が有りますように』
今日は7月の初めの主日です。そして栃木地区デーです。1874年玉生町にて栃木県で家庭集会が初めて開かれたことを覚えて、栃木地区では毎年7月第1週目の日曜日を栃木地区デーとして守っています。
ただ覚えるだけではなく宣教のスピリットを身に付けて信仰に励むことを願っています。
今日の聖書の個所は、ある日イエスが会堂に入って教えていた時に起こった出来事が書かれています。
その会堂には独りの人がいました。その人の右の手は萎えていたと書かれています。
何時もイエスは困っている人を助ける救いのスピリットを持っていましたので、7節に「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。」のです。彼らは会堂に入って神様の教えに耳を傾けて神の御心は何かと祈る人たちではなく、この時イエスの姿を狙い、何か少しでも間違ったことが有れば、即ち病人を癒すならば、安息日にやってはいけない行動だと言って激しく怒るつもりでした。
本来ならば喜びと希望を持って神様の御言葉の教えに期待して安息日に教会に行き、与えられた日曜の糧を探し求めるはずですが、律法学者たちやファリサイ派の人々は訴える口実を見つけようとしていたのです。
今皆さんが求めている事は何ですか。教会に来てお祈りする理由とは何ですか。
今日与えられた御言葉から新たにされて神様に喜ばれるものとして悔い改める事とは何か、
感謝する事は何かを確かめて、新しい1週間をいかにして生きるかを求める事ではありませんか。
律法学者たちやファリサイ派の人々の間違いは自分が持っている信仰は完璧だと自信を持ったことです。
8節にはこの言葉が書かれています。「イエスは彼らの考えを見抜いた」のです。
この聖書の言葉から気になるのは今神様が私たちの考えや思いを知っておられることです。
一週間の私たちの歩みを全て知っておられることです。
誰に出会ったのか、正しく話し合って神様の喜ばれる言葉を使い、行動をしたかを神様はご存じです。
でも私たち人間は律法学者たちやファリサイ派の人々のように、自分の事を忘れて相手の欠点しか見ていない事が有ります。
「サルの尻笑い」ということわざのように、自分も欠点が有るのに相手の欠点しか見ないのが人間の、私たちの弱さです。
日曜日の礼拝で、私たちの事を全て知っておられる神様の前に自分を遜り悔い改める事で自分の弱さを認めて神様に憐みを求める信仰が必要なのです。
そしてイエスキリストは9節で、こう問いかけていました。
読みます。「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』」
律法学者たちやファリサイ派の人々たちは自分たちが教えていた安息日の規定を何よりも大事に守ってきたのです。
安息日の規定は仕事をしないで安息する事です。
そして何が仕事であって何が仕事では無いかを決めて守っていたのです。この事で善きサマリア人の出来事が思い出されます。
ルカによる福音書10章25~37に書かれています。
あるユダヤ人がエルサレムからエリコに行く途中追いはぎに出会い半殺しにされました。
その道を祭司もレビ人も過ぎましたが助けませんでした。
イエスは律法学者たちやファリサイ派の人々に問いかけました。
律法を守るために病人を癒すことが出来る人が癒す事をしないという悪を行う事と、律法を破りながら善を行うために癒し助ける仕事をする事と、どちらが正しい行動ですかと問いかけています。
病を癒す事は救う事であって、病にある人を助けないのは人を滅ぼす事だという確かな教えを与えたのです。
勿論右手が萎えていたとは危険な病ではないのです。命に関わる病でもないのですがイエスはこの人を癒す時に「命を救うことか、滅ぼすことか」と問いかけていました。
右手が萎えていたのに癒さないのは「滅ぼす」ことだとの言葉を使いました。
右手が萎えていた人に対してのイエスご自身の憐みであって、ただ肉体の癒しではなく魂の救いも含まれています。
この聖書の出来事から学ぶ正しい行動は何ですか。
1.困っている人への憐みを表す事です。
勿論律法を守って今日は安息日ですので、明日も来られますかと聞いて、次の日に癒しの行動をしても良いと律法学者たちやファリサイ派の人々は思ったのです。
でもイエスは今日することを明日に延期するのではなく今日の事は今日する、今こそが大事、今こそ出来る事を後に延期するのではなく、今すぐに行うことを教えています。
イエスキリストの愛は、後でするのではなく今の事は今する、その行動にあるのです。
私たちは「ちょっと考えて見ます」という言葉をよく使います、まだ時間は有ると思っていますから、何かをするときに急がないで全ての事を検討して確かめて間違えないようにしようとします。
イエスキリストのように右手が萎えている人を助ける行動は、今は難しい事ですが、困っていた人を助けなさいとの神様からの使命が有ったとしたら、検討して後にするのではなく、直ぐに対応出来れば良いと思います。その面で西那須野教会の善きサマリア人募金の献金は素晴らしい事だと思っています。毎月周りの困っている人々を助けるために、力を合わせて神様に喜ばれる役割を担って生きましょう。まだ善きサマリア人募金の事を知らない方は社会部コーナを見てください。
2.正しい行動とは全人的ケアを行う事です。体も魂も霊的ケアで総合的なケアをする事です。
聖書にはただし右の手が萎えていた人を癒したことしか書かれていませんが、教会の役割は体も精神も魂も霊的な面も含めての総合的なケアをする必要が有ります。
西那須野教会はアジア学院サンデー、西那須野幼稚園サンデー、エルム福祉会サンデーを守っています。
これは教会と連なる関連団体のアジア学院、西那須野幼稚園、エルム福祉会の活動への総合的なケアです。体も心も魂も救われますようにとの祈りと共に、教会の使命とは何かを問いかけてイエスキリストに見習って行きましょう。
アジア学院、西那須野幼稚園、エルム福祉会自体は総合的なケアが難しいです。勿論アジア学院には宣教師としての職員が居り、総合的な面をケアしています。西那須野幼稚園は宗教奉仕として私と、久留先生と松本先生が奉仕していますが、教会の皆さんの、幼稚園の園児たちと職員たちがイエス・キリストの愛に満たされて救われますようにとのお祈りの支援が必要です。
エルム福祉会の利用者と職員たちがエルム福祉会創立理念を理解して、霊的に精神と魂がイエス・キリストの愛の光に満たされて、エルム福祉会の活動を通して地域にキリストの光が広がりますようにと教会が祈らなければならないのです。
そして今日は栃木地区デーです。栃木地区の各教会がイエスキリストの活動に満たされて神様に喜ばれる教会として成長出来ますようにとのお祈りをお願いいたします。
今週も右手が萎えていた人を愛して体も魂も癒した総合的な癒しの姿を見せて下さったイエスキリストを眺めて見上げてイエスに従って行きましょう。