ルカによる福音書5:12~16
説教題;深いイエスの愛
主イエスキリストの素晴らしい愛に満たされて生きますようにと願います。
実は今日は栃木地区交換講壇の日として鹿沼教会の高崎先生がメッセージをする予定でしたが、先生がコロナウイルスに感染されたので延期に成りました。
鹿沼教会と高崎先生を覚えてお祈りをお願いいたします。
今年の宣教方針に従って信仰の完成者であるイエスキリストの働きに目を向け、イエスキリストの姿から学び、信仰の模範として学びたいと思います。
今日の聖書の個所には、イエスがある町におられた時に全身重い皮膚病にかかった人に出会った事が書かれています。
全身重い皮膚病にかかった人の姿とは、想像出来ないほど残酷な姿ではないかと思います。
全身重い皮膚病患者は人々と出会う時には自分は重い皮膚病に患っていると大きな声で叫ばなければならないのです。
これをレビ記13:45にこのように教えています。読みます。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。」とあります。
これが守らなければならない規定です。
聖書にはその人の姿は書かれていないのですがそのように従ったと思います。
もし重い皮膚病の人と接した時には、その人も汚れた人に成るからそれを避けるためです。
重い皮膚病患者は地域から追い出され、家族と共に過ごす事が許されず、人権が奪われて苦しみの日々を送らなければなりませんでした。町から離れた外で過ごしていましたから、生きる事で精一杯な環境でした。
この全身重い皮膚病にかかった人はイエスの事を聞いてイエスの所に来たのです。
色んな壁が有りましたが勇気を持って必死に声を出して願いました。
ここで、この全身重い皮膚病にかかった人から学ぶ事は彼が持った信仰です。
彼にはイエスキリストが唯一の希望で有りました。
皆さんにはイエスキリストこそがこの世で唯一の救い主ですか。
12節の彼がイエスに願った姿と言葉を読みます。「この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。」
ひれ伏すとはイエスに切に「せつに」願う姿です。自分を低くしてこれが自分には最後のチャンスとして思って事でしょう。
祈って受け入れてもらえて、叶えてもらえれば嬉しいけれど、叶わなくても好いと思うような事ではなく、必死に求める姿です。
皆さんにとってイエスの存在はどんな存在ですか。この人はイエス様にも仏さまにも色んな神の名を上げて願うのではなく、イエスを「主よ」と呼び、あなた様が私の命ですと信じる信仰でした。
しかし彼は「御心ならば」と言います。「御心ならば」という言葉には自分が癒されることは、イエス様あなた様の御心に有ればという神様に委ねる信仰です。癒されても癒されなくても神様の御心として受け入れますという信仰です。
「御心ならば」という言葉に含まれる意味は癒されても癒されなくても丈夫です、ということです。
それを使徒パウロはローマの信徒への手紙14:8「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」と告白しています。讃美歌21-504「1 主よ、み手もて ひかせたまえ、 ただわが主の 道をあゆまん。 いかに暗く けわしくとも、 みむねならば われいとわじ。」と讃美するようにヒマワリの花ようにイエスキリストのみを仰ぎ見る信仰に立って生きましょう。
では、彼のこの言葉を聞いたイエスは如何なさいましたか。
13節の御言葉を読みます。「3イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。」ハレルヤ!
普通の人々は絶対重い皮膚病患者の体に手を差し伸べて触れる事はしません。
イエスは彼らを癒すために手を伸ばして触れなくとも癒す事が出来る方です。
でも自分の手を伸ばして触れたとはどういう事でしょうか。
私はあなたを愛していますという憐れみの心の表現です。
讃美歌precious Lordの1節にはこの歌詞が有ります。「1,イエスよ、愛の
御手をのべて 助けたまえ、われを 嵐ふいて 嘆くときも 立たせたまえ イエスよ」
「Precious Lord, take my hand Lead me on, let me stand I'm tired, I'm weak, I'm lone Through the storm, through the night Lead me on to light Take my hand, precious Lord, lead me home」
1908年韓国に来られた宣教師ポサイド牧師は、道で倒れていたあるハンセン病患者を自分の両手で抱きしめて馬に載せて行く姿を見ていた韓国人のチョイホンマンが、この出来事を見て感動を受けてクリスチャンに成り、ハンセン病患者のために献身したという出来事が有りました。
自分は手を触れることが出来ないのに、なぜアメリカ人は抱きしめて馬に載せ助ける事が出来るのかと、忘れられないショックを覚えたと彼は言っています。
「手を伸ばして触れる」とは限りない愛です。他の事とは比較できないほどのアガぺの愛です。
今日の聖書の個所に書かれている「重い皮膚病」患者は私たちのことではないでしょうか。
「手を伸ばして触れる」事は憐みを表す行動です。誰かが疲れ倒れそうになった私の手を暖かく握り憐みの笑顔を私に向けて見ていたとすれば素晴らしい力を得ます。再び起き上がる力を得ます。
13節のイエスの御言葉の「よろしい。清くなれ」の言葉を思い起こしてみましょう。
「よろしい」とは、どういう意味ですか。英語の聖書には[I am willing]とあり、「喜んで」という意味になります。「御心ならば」と言われた言葉に対して「喜んで」と応えるのです。
被害を受けて苦しんでいる人々に挨拶して直ぐに去って行くのなら、それはとても寂しいことです。
星野富弘先生の詩 「愛されている」の詩を紹介します。
どんな時にも/神様に愛されている/そう思っている/手を伸ばせば届くところ/呼べば聞こえるところ/眠れない夜は枕の中に/あなたがいる。」
どんな時にも、何時も主なる愛の神様は私たちと共に居られ、手を伸ばせば届くところに、呼べば聞こえる所に居られる神様、痛み苦しみで眠れない夜は枕の中に愛する神様は私と共に居られると讃美している星野富弘先生の言葉から、主イエスの言葉「よろしい」の意味が分かるような気がします。
この素晴らしい愛の瞬間を見ている私たちは、イエスに見習って愛の御手を他に人に伸ばして助ける人に成りなさいとのイエスキリストの言葉に耳を傾けて生きませんか。
1908年ポサイド宣教師の姿に感動し自分自身もハンセン病患者のために全力で活動したチョイホンマン先生のように、イエスキリストの香りを放つ人として今の時をキリスト者として歩みましょう。
最後に15~16節の御言葉を読みます「5しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。 16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」
素晴らしい驚く奇跡を行った後にイエスは「人里離れた所に退いて祈っておられた。」のです。
自分を高ぶるのではなく、自分の名誉を求めて自慢するのではなく、イエスご自身は自分の事を捨てて神に祈っておられたのです。神様の御心を求めて神様の業のために、欠けた所の無い生活を守り、祈りを持って続けておられたのです。