2025年9月7日西那須野教会礼拝説教文説教者:潘 炯旭牧師
説教題:『イエスにつまずいた人々』 聖書:マルコによる福音書:6:1~6
ハレルヤ!主の御名を崇めます。今日は9月の初めの主日です。
なんだか今年は暑さが変わらず猛暑が続きました。神様に守られて健やかに過ごす事を祈ります。
平和月間として定められた8月が終わり9月に成りました。
でも私たちの歩みが何時も平和を求めて生きる者としてなければならないのです。
マタイによる福音書5:9には「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」と教えられています。私たちが神の子ならば平和を実現する人に成らないといけないのです。
その面で毎日平和を実現できる生き方を守るような神の子として行きましょう。
今日は「イエスにつまずいた人々」について考えましょう。
ある日イエスキリストは故郷に帰りました。皆はイエスの教えと行った奇跡を見て驚きました。
2~3節に人々の反応を紹介しています。読みます。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と。
イエスと親しい人々は、イエスは教育を受けた人でもないし自分とあまり変わらない凡人な人と思っていたのにと不思議に感じながら、つまずいたのです。
恵みの時が来ましたが彼らはそのチャンスを見失ったのです。癒しの素晴らしい時が来ましたが神様の癒しの時を捨てたのです。
救いの神様の手が与えられたのですが自ら神様の手をつかむことなく無視しました。
6節にはイエスキリストは「人々の不信仰に驚かれた」と書かれています。
コリントの信徒への手紙Ⅱの6:2節の御言葉にはこの言葉が記されています。「「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と
今こそ神様は私たちに語ります。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と
残念ながら多くの人々は恵みの時に、救いに日に恵みから離れ、救いの御手を見ないで命の道ではなく滅びに通じる門を選び、狭い道ではなく広い道を選び命に通じる道から離れていきます。
イエスキリストにつまずいた人々は誰ですか。
1.神様の業を見ないで自己中心的な考えになっていたからです。
イエスの故郷の人々はイエスの家族を知っています。貧しい家族で目立たない普通の人たちでした。
なぜ多くの人々はイエスキリストの教えに耳を傾てなかったのですか。
例えば殺人の罪を犯した人は、犯した罪によって、その人も死ななければならないと考えられていました。そして死刑の判決が望ましいと思っていました。でも聖書では神様に悔い改めの祈りをし、神の赦しを信じなさいと教えています。あなたは悔い改め信じたから救われ神の子に成りましたと言うなんて可笑しいと彼らは思ったのです。
このような教えは世の教えではないのです。
聖書には理論的に理解できない事が多く書かれています。
イエスキリストの十字架上の死によって救われることを信じると救われますとか。
神様はあなたを愛しています。神を信じるとあなたは神の子に成ります。とか
学校では進化論を学んでいますが、私たちの命は神様の創造によって与えられた命ですと教えています。
私たちは精一杯正しく生きていて、法律を守り、社会的なルールを守ってきたのに「あなたは罪人です、悔い改めなさい」と言われます。その人の目で見ますと自分はあなたより正しく生活しているのに、なぜあなたから罪人だと言われなければならないのかと理解できません。
相手があなたに暴力をふるったから、あなたも復讐しなさいと教えるのではなく、その人を愛しなさいと教えるから聖書の教えはハードルが高くて無理だと考えるかも知れません。
イエスの故郷の人々はイエスを自分の立場で理解していたからつまずいたのです。
イエスに従った人々の共通点は何ですか。マタイによる福音書4:20「ペトロとアンデレは網を捨ててイエスに従った。4:22にはヤコブとヨハネは船と父親を残してイエスに従いました。
マルコによる福音書8:34「私に従いたい者は自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい」とあります。
この聖書の御言葉を見ますと捨てる事で従った弟子たちのように自分の事を捨てないからつまずくのです。狭い門に通じる道を願うならば、持っている物を捨てないと出来ないのです。つまずきます。信じられないのです。認めないのです。
聖書の命の御言葉につまずかないように、捨てる事を捨てて、信じる事を信じて、暗闇から光への新しい希望の道である命に通じる道に留まりましょう。
2. なぜイエスの故郷の人々はつまずいたと思いますか。
イエスがキリストではなく普通の人間だと思ったからです。
2000年前に日本ではなくイスラエルの地に生まれたイエスが、自分のキリストとは認めたくないからではないでしょうか。
残念ながら宗教の名によって行った数多くの戦争や戦いが有ったから、宗教は悪いと言われているかも知れません。本当の神様の教えには戦争ではなく平和、隣人を自分を愛するように愛する事を教えているのが聖書の教えです。間違った教えが有った過去の過ちを悔い改め、正しくイエスキリストに従って生きる事で、暗闇の中に光り輝く教会として神様に仕える僕として与えられた恵みに感謝して行きませんか。
12月に星野富弘先生のアート展示会を行います。
苦しみの中に出会ったイエスキリストの福音に導かれて、新しい道に導かれて、全世界に光を照らした素晴らしい先生の背中を見ながらキリストの光に出会うことが出来ればと願います。
イエスキリストの言葉は命です。光です。希望です。絶望に打ち勝つ勝利の力です。素晴らしい恵みにつまずいた人々のようではなく、恵みの主イエスに導かれて新たにされた人々のように、主イエスに仕える人として主イエスと共に生きて歩みましょう。ヘブライ人への手紙12:1「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と書かれてように、私たち一人一人が証人の一人として神に仕え、地域に仕える者として与えられた使命を果たして走りぬきましょう。
今日はこの説教の締めとして讃美歌461番を歌います。