詩編 133:1
見よ、兄弟が和合して共に住むのはいかに麗しく、いかに楽しいことであろう。

 

皆さん、おはようございます。
このように素晴らしい教会に招かれ、分かち合う機会を与えられたことを、リーダーの方々と教会員の皆さまに心から感謝申し上げます。ここに来られて、とても嬉しく思います。ありがとうございます。

私はレベッカ・M・J・トンプソンと申します。
大家族の出身であり、またイスラム教の家庭で育ちました。父はイスラム教徒で、母は元々クリスチャンでしたが、父と結婚するためにイスラム教に改宗しました。しかし、亡くなる前に再びクリスチャンへと戻りました。

 

私は結婚しており、2人の愛する子ども(女の子と男の子)がおります。私はクリスチャンです。教会では日曜学校の教師として子供のための伝道奉仕もしています。

私はアフリカで最も古い国、リベリア出身です。リベリア北東部の「ニンバ」という地域の出身で、この地域はプランテン、キャッサバ、カカオの大規模生産で有名です。そのため「リベリアの穀倉地帯」と呼ばれています。

 

リベリアはアフリカ西海岸に位置し、西にシエラレオネ、北にギニア、東にコートジボワール、南は大西洋に面しています。地形は、砂浜の海岸線から内陸の丘陵や台地まで変化に富んでいます。西アフリカ最大級の森林資源を有していますが、鉱山開発や農園開発による脅威にも直面しています。

 

リベリアの人々はとても友好的で、前向きで、敬意を大切にします。その友好精神から、1821年にアメリカから解放された奴隷を受け入れることに同意しました。そのため、国のモットーは「自由への愛が私たちをここに導いた(The Love of Liberty Brought Us Here)」です。

 

人口の約85%がキリスト教徒、12%がイスラム教徒、2.6%が無宗教、0.5%が伝統宗教、そして0.1%未満がその他の宗教です。しかし、宗教が異なっても平和に共存しています。

しかし、私の国には「食品の期限切れ問題」と「悪い統治」という大きな課題があります。リベリアは食料の約70%を輸入しており、これは内戦の影響や政府の農業支援への不足が原因です。

輸入時点ですでに期限切れのものが多く、期限切れの卵や鶏肉、野菜、肉などが市場に並びます。人々はそれを消費し続けるため、健康被害が生じています。特に経済的、健康的に弱い人々の間で、この問題は深刻です。

この問題こそが、私がアジア学院に来た大きな理由です。私は有機農業を学び、食料自給率を高める方法、そして「仕えるリーダーシップ」を学びたいと願っています。送り出し団体では地域ボランティアのスーパーバイザーを務め、学校や農民グループと共に働いています。アジア学院で学んだことを彼らに伝え、また実習用の田んぼを設ける計画もあります。

 

 

THEME: WHO IS MY NEIGHBOR?

TEXT: LUKE 10:25-37

テーマ: 「私の隣人とは誰か?」
聖書箇所: ルカによる福音書 10:25–37

 

この箇所でイエスは、強盗に襲われた一人の人を助けた「善きサマリア人」のたとえを語られました。

 

この話はどうように展開するのでしょうか。聖書によれば、ある律法の専門家がイエスを試そうとし、「先生、永遠の命を得るには何をすればよいのですか」と尋ねました。イエスは「律法には何と書いてあるか」と問い、彼は「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛することです」と答えました。イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われました。彼はなおも「では、私の隣人とは誰ですか」と問い返しました。

 

(30)イエスは答えて言われました。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、強盗に襲われた。彼らは彼の衣服を剥ぎ取り、殴打して、半殺しの状態で置き去りにして去って行った。」(31)たまたま同じ道を通ったユダヤ人の祭司は、彼を見て通り過ぎた。レビ人も同様に通り過ぎた。

 

ご存知のように、サマリア人とユダヤ人は互いに憎み合っていました。ほとんどのユダヤ人はサマリアを通ることを避けました。サマリアやサマリア人との接触を避けるため、わざわざ遠回りしたのです。想像できますか?

 

しかし、あるサマリア人(ユダヤ人ではなく、被害者とも面識のない男)が立ち止まり、彼を世話しました。傷に包帯を巻き、治療を受けられる場所へ連れて行き、治療費も負担しました。

 

このたとえからイエスが示そうとしたことは、隣人とは自分の仲間や知り合いに限られず、助けを必要とするすべての人であること、また、背景や信仰、人種を超えて愛と憐れみを示すべきであることだといえます。

 

この話から学びとれるポイントを見てみましょう

 

(1)リスクを取る心 – サマリア人は命の危険を冒してけがをしたユダヤ人を助けました。これが深い憐れみです。

 

(2)他者の必要に目を向ける – この物語は、誰であろうと、どこから来ようと、どんな宗教であろうと、困っている人たちの助けとなるよう私たちを励ましています。

 

(3)形だけの宗教を超える –  祭司とレビ人は、傷ついた男を無視しました。これは真の宗教が外見ではなく、行動へと導く変容した心にあることを示しています

 

(4)積極的な憐れみ – サマリア人は、真のユダヤ人と信じられていた祭司やレビ人のように振る舞わいませんでした。彼らは殴打され半殺しにされたこのユダヤ人男性に憐れみを示さず通り過ぎました。しかしそのサマリア人男性は、ただ傷ついた人を通り過ぎるだけでなく、立ち止まり、その傷を包帯で巻き、世話をしました。これは愛と憐れみと慈悲を示しています。

 

(5)すべての人の尊厳を認める – すべての人は尊い存在であり、価値があり、ケアと尊重に値することを示しています。

 

(6)   信仰と愛は行動を伴う – 愛と憐みの行動のない信仰は死んだ信仰であることを強調しています。

 

「行いのない信仰は死んだ信仰である」(ヤコブ4:14)。私たちが生きている限り、行動をもってすべての人々に愛と憐れみと慈しみを示さねばなりません。

 

助けを必要とする人を通り過ぎ、そのまま立ち去って心が安らかではなかった経験はありませんか? 私にはありました。

 

リベリアにいた時のことです。私の庭の入り口で、妊娠した若い女性が地面に無力に横たわっているのを見つけました。私は彼女に気づきました。また涼しい夕暮れ時に誰もが彼女を通り過ぎているのも見ました。その理由は、時々無力なふりをしている人々がいて、実際に助けに行くと、結局は怪我をしておらず、逆に他の犯罪者仲間を夜中に呼んで、助けたあなたを襲うことがあるからです。

 

そういうことを考えていると、わたしは初めは彼女を助けるのが怖くて、助けずに立ち去ったのでした。しかし歩きながら心が落ち着かず、結局食べ物を持って戻り、彼女に食べさせ、病院へ連れて行ってあげました。そこで彼女は男の子を出産したのでした。

 

後日、彼女の家族が感謝に訪ねてきて、私の心はとても清々しい気持ちになりました。

 

友よ、同じように聖霊は人々の必要を悟らせてくださいます。私がこの女性を助けたのは自力ではありません。その時、神の聖霊が彼女の必要に応えるよう導いてくださったのです。

 

ですから、今日の礼拝に与るにあたり、私たちの真の信仰は行動によって明らかにされることを確信しましょう。そして私たちの行動は特定の人々に限定されるものではありません。どうかイエスが愛されたように愛し、イエスが生きられたように信仰を生きましょう。

 

主イエスの御名によって、アーメン!
それでは賛美歌「古き御言葉(Ancient Words)」を歌いましょう。