主の栄光のために創造された

聖書:イザヤ書43:7


ハレルヤ!主の御名を崇めましょう。皆でハレルヤと隣人と挨拶しましょう。

今日は子ども祝福礼拝として守ります。

子ども祝福礼拝の背景はマルコによる福音書10:13~16の言葉です。

読みます。「13イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」

私は西那須野教会と繋がる全ての子供たちに、愛する主イエスキリストの御手が与えられ16節の御言葉のように「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」事が与えられますようにと願います。

イスラエルの旧約聖書の世界では子どもは神様の祝福のしるしでした。子どもは親にとって神様の祝福の報いでありました。私には孫が無いので神様の祝福の報いが無いとは思いません。逆に私が出会う全ての子供が私の子供だと思い感謝して祈っています。

今日も私が出会う子供たちのことを喜びと感謝を持って祈ることが出来て嬉しいです。

今日の聖書の言葉をよく見ますと先ず「彼らは皆」の言葉から始まります。

ここで彼らとは誰ですか。今日の聖書の御言葉の前の4節を読みます。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」とあります。

ここで彼らとは神様の目に「値高く、貴く/神様ご自身があなたを愛している」と書かれています。

神様の祝福を受けて価値ある存在、何よりも尊い方、神様に愛されている人です。

「君は愛されるため生まれた/君の生涯は愛で満ちている 君は愛されるため生まれた/君の生涯は愛で満ちている」


今日の聖書の御言葉を続けて見ますと「わたしの栄光のために創造し/形づくり」と書かれています。

私たちは神の栄光のために形づくられ、創造されたのです。

皆さんお一人お一人は、神様の目的が有ったからそれぞれの形で作られたのです。ですから先ほど申しましたが値高く、貴い存在なのです。

皆さんは鏡を見た時に自分の姿を見ますね~。鏡に映った自分の姿が素晴らしいと思いますか。

恥ずかしいですか。

忘れてはいけない事は神様が目的を持って形づくりそのような姿を与えたのです。

例えばスプーンとお箸の使う目的は異なります。美味しいスープを飲みたいと思っているのに、お箸を使ってしまったら飲みにくいですよね。

うどんを食べるのにお箸ではなくスプーンで食べようとしても上手く(うまく)食べられませんね。

神様が立てた目的に相応しい生活をするなら、人生は幸せな生活を送りますが、目的に反する方向に行くと困ったことになります。

もし自分の為に生きるならば、自分の利益だけを求めます。自分の利益が損をしないように戦い、あらそうと戦争が起きます。残酷な結果に成ります。

自分の事だけ思うと争いが始まります。 これがこの世の姿です。

でも神様は自分の為にではなく神様の栄光のために生きなさいと教えています。

神様の栄光のためとは、神様が望んで居られる事のために生きる事です。

神様が望んで居られることは愛する事、憐みを持って生きる事、平和で生きる事、互いに助け合って生きる事、自分の為に生きるのではなく出来れば共に生きる事、互いに喜びを分かち合って生きる事を聖書は教えています。

今教会にはトーンチャイムがあります。

もし自分の気持ちだけを(あらわ)したくて、楽譜に合わせるのではなく、勝手(かって)に振りますと騒音に成ります。誰も耳を傾けません。隣の人に合わせて楽譜に従って合わせて行くと奇麗な素晴らしい音楽に成ります。

私たち一人一人はトーンチャイムのそれぞれの音かもしれません。

トーンチャイムはそれぞれ長さが異なります。低い音も高い音も有ります。楽譜に合わせて動くと素晴らしい音楽に成ります。神様が目的を持ってその姿に創造されたのですから、神様の栄光のために生きると、私たちのこの世界に素晴らしい事が起きます。

神様が与えられた自分は何者なのかと思いながら、素晴らしい役割を全う出来る人生に成りますようにと願います。そんな人に成りますようにCS子供たちのために大人たちは祈りを持って支える使命が有ります。今日子どもたちが神様の素晴らしい祝福に満たされますようにと願います。