説教題:悔い改めなさい 聖書: ルカによる福音書 17:1~4


明けましておめでとうございます。

隣の方ともう一度新年挨拶をしましょう。「明けましておめでとうございます。」


イザヤ書44章6節の御言葉を読みます。「イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」


この御言葉に基づき、神様をアルファ(Α)とオメガ(Ω)なる神様、万物の最初と最後を意味し、永遠の存在者である神とイエス・キリストを指します。

ギリシャ語アルファベットの最初の字がアルファ(Α)で、最後の字がオメガ(Ω)です。



新年を迎えました。信仰生活の中で重要な教えは悔い改める事です。何時も罪を犯したことに対して、何時も「悔い改める事」 「立ち返る」、清める等(など)、このみ言葉は多くのことを教えています。


ホセア書14:2を読みますと「イスラエルよ、立ち帰れ/あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。」とあります。

初めての人、アダムが罪を犯してから悔い改めの赦しが必要とされました。

罪人として罪の赦しの始まりが悔い改めです。悔い改める事で神に近づきますが、罪を犯して神から離れる事で神の裁きが重くなります。


イエスの宣教の初めの言葉も悔い改める事でした。

旧約の預言者たちが告げた神の言葉も悔い改める事に繋がっています。

悔い改めがない神の言葉は有りません。


信仰の始まりも悔い改めからです。放蕩息子が家に帰る決意を立てて自分の所から父の家まで歩く歩みこそが悔い改めの表現です。

放蕩息子の話では、家から離れた事、父から離れた事が間違いであることが分かって、結果として父の家に戻って父と共に働く事が悔い改めの完成になるのです。父に心配をかけた人が父に喜ばれる生活を送るようになっていく事を悔い改めと言うのです。

弟が父の家から離れた事が間違いだと分かっていたのに、家に戻ることが恥ずかしくなり自分のプライドを傷つける事だと思って、結局家に帰らなかったならば、弟は悔い改めに失敗するのです。


罪を犯すという事は、神様の意に従わず、自分の思う通りに自分の計画とおりに行う事です。

初めの人アダムは、創世記2:17節に明確にあるように、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない、食べると必ず死んでしまう、と知っていましたが、悪魔は3章4節で、神様は善悪の知識の木の実を食べても良いと言っていると嘘をつき、決して死ぬ事は無いと神様の教えを変更します。


天の神様を自分の神として信じるという事は、天地創造の神を全能の神として、救い主として信じ従い、決して神様の言葉を軽んじることなく、唯一の真理として守り従いますと告白する事です。そこから信仰生活が始まります。

ですから、悔い改めなさいとのイエスキリストの教えに従うために必要な事は、


1.今自分が思う計画と行いが神様に喜ばれることなのか、神様の教えから離れることなく神様の教えに従っているのかを確認することが必要です。

悔い改める事を望むなら、先ず自分が何か神様に背いたこと、神の御言葉に反したことが有るのかに気づく事です。

自分は何も間違いない、正しく生きていて欠ける事が無いと思う人は、なぜ教会では罪人、罪人と言うのか恥かしいと思うと思います。 神様を知る前は、自分には罪は無いと思っていると思います。でも神を知る事によって、人は自分の罪を認め罪の赦しのために祈ります。


自分の顔は鏡を見ないと分かりません。鏡の前に立っても暗く光が無いと、鏡が有っても見分ける事は出来ません。


神様に出会った人々の共通点は「私は罪人です」と言うことです。


イザヤ書6:5を読みます。「わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。


神様の恵みの御言葉に出会い、罪を告白して新たにされて生きると素晴らしい変化があらわれます。

あなたが礼拝に参加して何も心に打たれた事が無いとすれば、また神に出会った事がないかも知れません。

礼拝の時に讃美歌が有って、聖書の言葉が有って、祈りが有り、説教が有り、交わりがあります。

西那須野教会の礼拝に神様のご臨在を望みお祈りしましょう。そして礼拝を通して神様に出会うことが出来ますようとお祈りしましょう。礼拝を通して悔い改めと慰めと神の愛を受けて感謝に溢れる礼拝に成りますようにという祈りと共に、神様の業を期待し、信じて生きましょう。


2.悔い改め罪の赦しを求めた事に神様の赦しが有った事を信じましょう。

教会に来る時にはあらゆる重荷を負って苦しんでいた事から解放され、赦され、新たにされたことを信じて感謝の心で家に帰り、一週間の歩みを歩む力を更にもらって勇気を持って帰りましょう。


ヨハネの手紙一1:9「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」の御言葉のように、神はあらゆる不義から私たちを清めて下さいます。


マタイによる福音書11:28の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」の御言葉のように、神様の前に出て全ての重荷を下して感謝して帰る事を信じてください。疲れはてて苦しみの重荷を神様の前に下ろしてから、そのまま帰ろうとしたら神様に迷惑を欠けたと思って下した全ての重荷を再び担いで家に帰る事はしないでください。ただ、神様は、私たちが疲れて、苦しんで背負っていた重荷を下した後には、必ず神様が軛を与えます。


マタイによる福音書11:30に「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と教えています。

神様が与えた軛、重荷は軽いと言っています。でも、時には神様が与えた軛は最も重く大変な場合も有ります。十字架の道のように痛みも感じる時に有りますが、神様の御言葉は嘘ではなく、神様に従って十字架の道を選んで奉仕した時、それが過ぎ去った時には感謝の喜びに溢れます。子供を産む苦しみは大きいですが、子供を通して与えられる喜びと幸せがあるから、自分の子供を嫌がる人はいないと思います。


3.悔い改めの恵みと共に歩むから、私たちも相手を赦さないといけないのです


今日の聖書の個所3~4節を読みましょう。「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」


主の祈りに唱えたように「我らに罪を犯すものを我らが赦すことく、われらの罪をも赦したまえ。」

まだ何かを赦さないという気持ちが残っていますか。赦す事は勧めではなく命令です。

罪を赦す事は神様の戒めです。赦して生きるのか、赦さないで生きるのか、人間としてどちらかを選ぶ資格を私たちは持たないのです。過ぎ去った時、全ての事に対して許しを求めている人を受け入れ赦しあって生きましょう。

新しい年2026年には悔い改めの恵みに生かされますように願います。そしてお互いに赦し合い、神様の愛に満たされて、主イエスの愛によって一体になる恵みに溢れますように願います。

星野富弘さんの詞「ドクダミ」が有ります。

「知らなかった こんなにきれいだった  すぐにそばにいて 

知しらなかったよ」


お互いに西那須野教会員のこんな素晴らしい事を知らなかった、神様のこんな恵みを知らなかったなどと語り合い、多くの恵みに満たされますように。