2026年1月18日 西那須野教会との交換講壇 説教者:

沖合に目をやると、幾つもの漁り火(イサリビ)が点滅しているのが見えました。魚が光に向かって集まる習性を利用し、漁をしているのです。まるでイルミネーションのように、あそこにも、ここにも、数えきれない数の光が点っています。それを見ながらペトロは主イエスと出会った日、主から言われた言葉を思い出したに違いありません。《わたしについて来なさい。》(マル1:17)。そうしてペトロは兄弟のアンデレと共に《人間をとる漁師》にしていただきました。使われる機材が変わっても、今日(コンニチ)と変わらない漁の風景が、2000年前のガリラヤ湖にもありました。

だから、主イエスから夕暮れの迫るガリラヤ湖を前にして《向こう岸に渡ろう》と言われたときに、ペトロにはそれが特別難しいことだとは思えなかったでしょう。十二弟子のプロフィールを見ると、他にゼベダイの兄弟もガリラヤ湖の元漁師でした。元徴税人のレビのように、肉体労働とは無縁な弟子達も中にはいますが、ガリラヤ湖を熟知した経験豊かな元漁師の存在が、皆の不安を軽減したのでしょう。ガリラヤ湖は周囲53㎞、総面積は茨城県の霞ヶ浦に相当する湖です。《向こう岸》の《ゲラサ人の地方》(マル5:1)までは10㎞を越える移動になります。

直ぐに準備をして出発すれば、明日夜が明ける前には目的地に着くことが出来るだろう。天候も問題はない。夕暮れに染まった空を見上げて、ペトロはそんなことを考えたかもしれない。元漁師達が準備を終えると、一行を乗せた船はガリラヤ湖へ船出します。船旅は順調に進かとみえました。《激しい突風が起》り、波が船に襲いかかるそのときまでは…。

突如姿を変えて船に襲いる自然の猛威を、マルコは《激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった》と描いています。その箇所を《大波が舟の中まで襲って来》(岩波訳)たと訳している聖書もあります。波が弟子達が乗る舟に襲いかかっているという描写です。どうしてそういう訳になるのか。新共同訳聖書が「かぶる」と訳した言葉は主イエスの逮捕の場面でも使われます(14:46)。祭司長の手先が主イエスに「暴力的に手をがけた」ことがその言葉を使って表現されている。だからこのときも、嵐は弟子達の乗る小舟に手を掛けて、舟諸共に滅びの渦へと引きずり込もうとしたとマルコは言いたいのす。激しい突風や大波は単なる自然現象ではありません。命を奪う混沌として描かれています。

マルコが描いた情景に閃きを得て、オランダの画家レンブラントは「ガリラヤ湖の嵐の中のキリスト」と題された作品を描きました。レンブラントらしい、明と暗のコントラストを巧みに使った絵には、襲ってくる波に容赦なく翻弄される小舟が描かれます。船上の弟子達に目を向けると、舟から振り落とされまいとある者は帆柱に、ある者は帆を繋ぐロープにしがみいています。 船縁(フナベリ)を掴んで、湖面をのぞき込む姿勢の弟子もいる。

印象的なのは操舵手(ソウダシュ)役の弟子です。彼たった一人でこの状況に抗うように、舵を握り締めています。その前には主イエスと二人の弟子の姿が描かれていて、目を凝らすと、そのうちの一人の手が主の胸ぐらを掴んでいます。《先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか》と詰め寄ったのは彼でしょうか。

「ガリラヤ湖の嵐の中のキリスト」は画家の創作物です。マルコによる福音書の何処を読んでも、帆柱にしがみつく弟子や、必死に舵を握り続けた弟子、ましてや主イエスの胸ぐらを掴む弟子など登場しません。全ては僅か6節の記述から画家レンブラントが創作した世界なのです。しかしその絵を見たとき、「主よ、わたし達は溺れてしまいます」と声を上げた弟子達の心が鮮やかに描き出されているとわたしは強く思いました。

聖書が描く嵐に翻弄される弟子達の恐怖は額縁の中のフィクションで終わりません。アドベントを迎えた時期に「能登半島地震2年を覚えて」と題した手紙が教団から届きました。あの日から2度目の新年を迎えましたが、輪島教会は未だ仮の施設で礼拝を続けているそうです。同じ様な経験を2011年の東日本大震災ではわたし達もしました。町をのみ込む津波の猛威に呆然としたのはわたしだけではないはずです。また見えない放射能の恐怖から逃れて鹿沼に移り住んだ方がいます。

その経験を通してわたし達が気付くこと、それはわたし達自身が船上で右往左往する弟子の一人になるということです。《先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか》という弟子の声は、無数の地割れや襲ってくる津波、そして放射能に翻弄されるわたし達自身の心の声なのです。そのときわたし達は《主は共にいる。》(ヨシ1:9)とどうして信じることが出来るでしょう。

試みの日にわたし達を支えてくださるのは主イエス・キリスト以外にありません。このエピソードがそれを教えています。嵐に翻弄される船の上に少しも動じない主のお姿がありました。一人《艫の方で枕をして眠っておられ》ます。この世の混乱から一線を画す神の平和がそのお姿には現れています。その主が《先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。》という弟子の懇願を聞いて立ち上がります。

何が主イエスを動かしたのか。「溺れる」は「滅ぼす」と訳すことも出来る言葉です。弟子の懇願は《先生、わたしたちが(滅んでも)…かまわないのですか。》と読み替えることも出来ます。むしろ「滅ぶ」と訳す方が弟子の気持ちにそっているとわたしは思います。

その懇願が主を立ち上がらせました。主は《独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る》(ヨハ3:16)という父の御心を成し遂げるため、わたし達のもとに来られた方なのです。だから《先生、わたしたちが(滅んでも)…》という弟子の嘆きをどうして無視できたでしょうか。主は立ち上がりました。神の独り子としての権威をもって嵐のガリラヤ湖を叱責し静めると、次に船上で阿鼻叫喚する弟子達に目を向けて、《なぜ怖がるのか。ま

だ信じないのか。》と一喝しています。

主イエスが弟子達に言われた《まだ信じないのか》という言葉。その問いかけは今日(キョウ)わたしたちにも向けられています。わたし達は何を信じるのか。神の愛を信じます。それは《信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る》ために、独り子イエスを十字架に献げることも厭わない父の愛です。更に父は主を《初穂》(1コリ15:20)として復活させて、《命に至る道》(使2:28)をわたし達に開いてくださいました。その道を《天の故郷》(ヘブ11:16)を目指して進むわたし達の道行きにも嵐のガリラヤ湖が待ち構えているでしょう。しかし《主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離す》(ロマ8:39)ことが出来るものはないとわたしは信じています。