2022年3月6日西那須野教会説教文 説教者:潘 炯旭牧師
説教:「時がある」、聖書:コへレトの言葉3:1~10
先ずウクライナ、ミヤンマ、カメルン等、世界の平和のために黙禱しましょう。(黙祷)
3月2日からレントが始まりました。
今年のイースター礼拝は4月17日に行います。今年のイースターは少し遅い年です。
毎年イースターの日は、春分の日以降、最初の満月から一番目にくる日曜日と定められていますので毎年日にちが異なっています。先程申しましたが4月16日までがレントの時期です。
私たちのために十字架の苦難の道を歩み終えたイエスの限りない愛を覚えてレントの時期を恵みの時として過ごしたいと思います。
イエスキリストは私たちのために十字架の苦難の道を選び、一粒の種が死ぬ事で多い実を結ぶとのイエスご自身が教えた御言葉を実現し、愛の素晴らしい業を見せて下さいました。
今日のみ言葉からレントの時のメッセジーを分かち合いたいとおもいます。
1. 全ての事には時があります。
神様が私たちを愛して御子イエスキリストを送って下さった喜びと恵みの時クリスマスが有り、世の全ての重荷を一人で担って一番弱い者の姿で十字架の苦難の道を選び、疲れ果てて寂しい時を過ごした受難節の十字架が有りました。
そして苦難の暗闇と絶望の夜が過ぎ、人の力と権力で墓に石で封印し番兵をおいて見張った死に打ち勝つ時、復活の朝を迎えます。
コへレトの言葉は宣言しています。何事にも時が有ると。
今はコロナウィルスの時苦しみも時ですが、復活のイエスに向かうレントの時に主の愛と恵みを深める時でも有るのですからコロナウィルスの時を希望を持って行きましょう。
生まれる時、健康に過ごす時、弱くなって病と共に歩む時、成功する時、失敗する時。
私たちにはその時その時定められた時が有るのです。
我らの主イエスこ自身も3000人も5000人も人々に囲まれた時もあれば、親しい人は一人も側に居ない苦しみの十字架の時も有りました。
レントはイエスの死が苦しみで終わるのではなく復活の朝が近づいて来る事を見る時です。
一粒の麦の種が死ぬことによって多く実が結ばれることが約束されたように、一時の苦しみと苦難がある暗黒の時代の後には新たな希望の朝が来ることを、信仰によって確かめて生きるようにとレントに向かっている私たちに聖書は話しかけているのです。
2. 時が有る神の業を人間は理解出来ないのです。
11節のみ言葉を読みます。「神はすべてを時にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」
神のなさる業は人間の頭では理解できません。
イエスと共に歩んでいた弟子たちを初め多くの人々は素晴らしい奇跡、例えば荒海を鎮め、病に捕らえられた人々を癒し、五つのパンと二匹の魚で子供と女を除く男5000人を食べされた事を真近に見てきました。そんなお方が何一つ弁明もせず、十字架の道を何度も何度も倒れながら進む姿を見た時、なぜ神様は自分の独子を見捨てられ十字架で死ぬ事を赦されたのか分からなくなったことでしょう。
私たちが計画した時ではなく神の時間であって、神の業は人間には分からないのです。
分からないから諦めて明日に何が起こるのかと恐れて生きるのではなく、神の業が有る事を信じ神に委ねて生きる事を教えているのです。
自分が幾ら苦労しても神の業では無いとだめだと思って何もしないのでしょう。でもローマの信徒への手紙8:24-25と28~30節の御言葉は何を教えているのですか。読んで見たいと思います。「24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
28神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 29神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。30神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」
今は目には見えない希望でも、忍耐して望みを諦めずに待っていると、神様は万事が益となるようにと導き助けて下さいます。そのために私たちを召し出して義とされ、さらに栄光を下さると使徒パウロは教えているのです。
イエスは木の枝に休んでいる鳥を見るのではなく、空の鳥を良く見なさいとマタイによる福音書6:26で教えています。
ただ見るのではなく、よく見る事を教えています。
空の鳥でさえただ飛んでいるのではなく神様の業が有る事を示しているのです。
全ての事には時が有ります。でもその時は神の業の中にあるのです。
目に見えない希望のようですが信じ委ねて生きる事で神様は神の業を行って下さるのです。
イエスの受難の道をよく見ると、イエスご自身も神の業を望み苦難の道を完成させ、復活の思いがけない素晴らしい業を完成することが出来たのです。
誰もイエスの苦難の時、十字架の時には神の業が有る事を知りませんでした。
パリサイ派の人々と律法学者らはイエスを十字架に付けることで自分たちが勝利を得、全ての問題が解決したと思ったことでしょう。
そしてイエスの弟子たちは突然自分の先生を奪われて全ての希望を失ったことでしょう。彼らは神の業を見る事が出来なかったのです。
今もコロナ禍の中、何が神の業なのか分かりません。ですが、コロナ禍の苦しみの中にも神様の業が有ると信じ、神に委ねて神の業を望んで今こそ祈りと共に神に仕える者として生きましょう。
十字架のレントの時、神の業が有る事を信じ、神様に従って御言葉に励まされて一日一日を主なる神と共に行きましょう。
3. 時は永遠に導きます。(11節)
11節には「また、永遠を思う心を人に与えられる」と記されています。
時は、その時その時の瞬間ですが、その瞬間が続いて永遠に成ります。川の水の流れを見ていると絶えず流れています。雨の一滴が合わさると大きな川に成るように、一瞬の時が合わさって永遠に成ります。
神様は永遠を思う心を人に与えました。人間は少しでも長く生きたいと望みます。健康を望みます。
人間の歴史を見ると人間は神を求めて、神様との良い関係を結ぼうとする礼拝の姿が残されています。
20世紀に入り科学が進歩し宗教は終わると言われましたが、多くの人々は学問,科学によって神を知ることになり、今こそ永遠に生きるために神様を求めているのです。
自分の能力をはるかに超えている神様の神秘を感じて、神を自分の主として受け入れ、神に従う事で心の平安を味わって生きています。
レント、受難節は私たちに永遠の道を整えるためのものです。預言者イザヤのお告げのように(イザヤ書53:5)イエスご自身が苦しんだお陰で私たちが永遠の命に預かる事が出来たのです。その事に気づき感謝してイエスキリストの受難の恵みを深く味わっていきましょう。イザヤ書53:5を紹介します。「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」と書かれています。
全ての事には時が有る事。今はレントの時ですがこのレントの時を恵みの時として過ごして行きましょう。