2025年9月14日西那須野教会礼拝説教文説教者:潘 炯旭牧師
説教題: 『長老を尊び』 聖書:レビ記19:32
今日は敬老の日礼拝です。西那須野教会の敬老の皆様おめでとうございます。
ある人は「老人になった」という言葉は褒められているのではなく、自分の年齢より「若く見える」と言われた方が嬉しくなって笑顔になると言われます。
若い時には早く年を取りたいと思いましたが、年を取ると一年が過ぎるのが凄く早く感じます。
今日の聖書の個所の言葉に「白髪の人の前では起立し、長老を尊び」と書かれています。起立するとは尊敬する事です。偉い方が入場する時に起立します。77歳より若い方は起立して先輩たち、敬老の方々に拍手してお祝いしましょう。
有難うございます。さて、今は礼拝の時です。説教の時です。私たちは主なる神様の恵みに感謝し主の御名をほめ歌いたいのです。
高齢の人々を守って下さった神様に感謝しなければならないのです。ですから今日の聖書の御言葉にも「あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」と教えています。
今日の敬老の日の礼拝を準備するために敬老の日お祝いカードを作りました。良い写真を持っていないので教会員にお願いしました。聖地巡礼の道に自ら目標を立てて無事に歩き終えた方に写真をお願いいたしました。何枚かの写真を見せて下さいました。その中の写真を選び敬老の日のお祝いカードを作りました。
地面に落ちた花びら1枚写真です。花びらはハートの形でした。
地面に落ちた花びらの価値はないように見えます。でもそこに価値が有ると思って大事にすることで素晴らしい価値が生み出されます。
敬老の日を迎えた皆さんの存在に素晴らし価値が有ると思う時にこそ、価値ある存在になるでしょう。
落ちた花びらから愛を感じ、皆さんを愛していますとお祝いたい願いが含まれている事を覚えて欲しいのです。
聖書に白髪の人を尊敬し、尊い人として受け入れる事は、すなわち神様を畏れる事だと神様は教えています。
今の社会には老人虐待が増えていて、高齢者の孤独死が課題に成っています。私たちは今、如何すれば高齢者たちとの絆を強くする事が出来るのかを教会の課題として取り組むことが出来るかを考えなければならないと思っています。
ただ日曜日に教会に集まって讃美し祈り、終わったら帰るのではなく、互いに絆を作り一人ではなく共にいるのだという事を覚える為にどうすれば良いかの仕組み作りを話し合って行きたいです。
今日の聖書の言葉のレビ記に書かれている事は昔から今に至る問題だと思いました。
人間は罪を犯し始めてから何時も自己中心的になり、殺人や戦い、妬みなどが生じます。
このような罪を犯さないようにするには神を畏れる事です。
神様の教えに耳を傾け、正しい道に導かれますように目を主イエスキリストの教えに向けようではありませんか。
私が老人ホームの責任者として勤めていた時に電話で相談が有りました。
身内の無い方のための老人ホームでしたので身内が無い人ならば私たちが受け入れますよと答えました。そして認知症のある方を連れて来ました。
私は本当にこの人のために相談して、こちらまで連れて来られた事に感謝しますと挨拶もしました。
数日後で認知症のお爺さんの娘から電話が有りました。実はこの人を連れて来た人は父と再婚した女性であることが明らかになり、後から娘が来て父を連れて帰ったことが有ります。
健康な時やお金が有る時には周りに人が居ますが、何も無くなるとこの人の様に周りには誰も居なくなるのが現実なのでしょう。
西那須野教会が如何すれば高齢の方たちを尊敬し、尊ぶ心を持って共に生きることが出来るでしょうか。
それは、その方々を覚える事です。自分が積極的に関わり、その方たちから学び、関心を持つ事で、自然に自分の行動として高齢の方々を守り、共に生きて行けるのではないかと思うのです。
敬老の日を迎えた今の方たちが歩んできた背中をよく見て、その方を尊敬して敬う心を持つ事をお勧めいたします。
これは私の言葉ではなく今日の聖書の言葉、神様の口から出た命の言葉です。
私は恵まれた人です。父親、親戚の人々から愛された存在である事を経験した者です。
子供の時から、教会から素晴らしい神様の愛と恵みに満たされて育った恵まれた人です。
でも今多くの子供たちが親から放棄されて誰からの愛も知らずにいます。また自分の子どもを如何育てれば良いのか分からない親が増えていることが大きな課題に成っています。
如何すれば人間関係の絆を作り上げることが出来るのか、教会の役割は何かと問いかけられています。
自己中心的な考えから離れて共に生きる生活とは何か、そして今の高齢者たちの背中から学ぶ事は何かを問いかける時だと思うのです。
高齢の方たちの前に立ち、その方たちを尊敬する事を神様の教えとして受け入れてください。
それが神様を畏れる事だと教えています。
高齢の方を敬い覚える事が神を畏れる事になるとは、どういう意味でしょうか。
今私たちが味わっている状況は私たちの前の人々のご苦労の実が有ってこそのものです。先輩たちは神様が与えて下さった命を守り神様に仕えてこられた事によって、今の私たちが存在するのです。ここに高齢者を尊敬する事と神様を畏れる事の関係が始まります。
そのうえで今の私たちが神様に仕えて後の時代に見せる背中とは何かにも繋がります。
今私たちの周りに居られる高齢の方たちを思い起こしてみましょう。
彼らの背中を良く思い起こして感謝する事、その方を尊敬する理由は何かを思いましょう。
その方の姿から忘れられない教訓は何かを覚えましょう。
それらの方と出会うことが出来るように導いて下さった神様に感謝しましょう。
それを重ねて今の西那須野教会の高齢の方たち、今日いらっしゃっていない方々を覚えて感謝して心から有難うございますと感謝しましょう。
私たちの人生は一つの巡礼の道でもあります。真理を求め、如何過ごしてよいのか自分自身に問いかけながら静かに前の道を続けて歩く巡礼者の様に、お一人お一人の人生が素晴らしい背中を後の世代に残すことが出来るように主の導きに願い求め全うして行きましょう。
主の御恵みと憐みが先輩の方々に、豊かに降り注ぎますように願い求めましょう。