聖書 マタイによる福音書7:24~29

メッセージ「言葉を聞いて」

 はい、今日のお話は、ある所に家を建てる人のお話をしたいと思います。
みなさんが住んでいるお家はどんなところに建っていますか?土の上ですか?
コンクリートの上ですか?それとも砂の上ですか?
もしかしたら、水の上に建てているかもしれません。
おうちに帰ったら調べてみてください。
どんなに立派な家を建てても、
どんなにかわいらしい家を建てても、どんなに虹のような素敵な色の家を建てても、
どんなに山のように高いマンションを立てても大事なことがあるんです。
それは、なんだと思いますか?話を聞いて後でわかったら教えて下さいね。

ある人が「私は海が見える素敵な白いお家を建てましょう。
すぐに住んで海に潜って魚も見てみたいし、
ボートで色々な所に出かけたいので砂浜の上に家を建てましょう。
砂のほうが柔らかで柱も簡単に深く埋めることができるから」そう言って、
一番良いものを使って豪華な家を建てました。
もう一人同じ様に海の近くに家を建てる人がいました。
「イヤーなんて素敵な所なんだろう。こんなところが買えるなんて幸せだな。
神様ありがとうございます。ずうっと住めるようになるべく硬い所を探して
家を建てましょう。」そうしてその人は、
少し海から離れたとても硬い所を探し出して普通の家を建てはじめました。
しかし硬い所は、なかなか家を建てることも大変でしたが、
なんとか家を建てることができました。
砂浜に家を建てた人は、「大変そうだな。私の家はすぐにできて、
海にも潜れてきれいな魚を見ることができるし、おいしい魚も食べられる。
そして何よりも海の砂浜に建てたから海が近くて楽しいな」そのように思っていました。

ところがある日、海の近くで嵐が起きました。海が大荒れで、
すごい風が浜辺に建てた家を襲いました。風はなかなか止みそうにないのです。
浜辺に家を建てた人はどうしようと考えている時に、
硬い場所に家を建てた人が訪ねてきました。「さあ早く私の家に逃げましょう。」と
声をかけてくれたのです。手を引っ張られその人の家に来て
窓から自分の家を心配そうに見ていると海の水がどんどん増えていきました。
そしてとうとう家は波にのまれてしまいました。
もしもあのまま家にいたらどうなっていたでしょう?考えると胸がドキドキします。

今日の話は、どんな人であっても、どんな場所でも、そしてどんな時にもまず大事なことは、
耳と心を神様に向けて、神様の言葉を信じることです。
もしかしたら、仲の良いお友達に「そんな教会なんか行くなよ」と
言われてしまうかもしれません。笑われてしまうかもしれません。
もっと楽しいことをしたいと思うかもしれません。
「つまらない」と感じるかもしれません。でも大事なのは、教会から、
神様から離れないことです。そのことによって私たちはしっかりとした
神様の土台の上に立つことができるのです。
いやもうすでに神様はみなさんを硬いしっかりとしたものに立たされているのです。
その神様が与えてくださったものを続けていく事は大人だって難しいですけど
みなさんは大丈夫です。だって神様はみなさんのことが大好きで
愛しくださるから大事なイエス様をくださったのですから。
お祈りします。神様私たちに、イエス様を与えてくださったことを感謝いたします。
そのイエス様によって私たちは強い心を持つことができます。
どうぞいつまでも神様が守ってください。
神様をいつまでも信じる心を与えてください。
そしてずうっと神様のこどもになれますように。
このお祈りをイエス様のお名前を通してお献げ致します。アーメン。
(ここでこどもたちへのお話は終わりです。))

それではこれから大人の皆さんにお話しします。
本日の聖書個所を再びご覧ください。神様の言葉は誰でも聞くことはできます。
それが大人であっても子供であっても、平等に与えられています。
しかしその言葉をどう理解してどう受け止め実践していくことなのかが大切です。
その言葉を聞いて理解してその言葉に従う者は、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ていると書いてあります。
神様の岩盤は、神様が与えてくださるのです。
神様が与えてくださったものをどのように用いるかは私たち次第なのです。

つまりどんなに強固なものを与えてくださっていても
私たちが何もせずにいては、そのままです。かえって頭でも打って危険です。
あるいは骨折してしまうかもしれません。
もしかしたら命を奪われてしまうかもしれないのです。
そのようにならないように私たちがその言葉を理解するために
苦労をしなければならないということです。
ローマは一日にして成らずという言葉があるように、信仰も同じです。
信仰も自分を襲うような知識や財力や権力、武力様々な抑圧にも揺るがない
信仰を持つためにはまずそのことに打ち勝つ力がないと
その力に飲み込まれてしまうのです。その力はどうすれば得られるでしょうか?
もちろん神様が守ってくださるという絶対的信頼があれば、
何も必要ないのかもしれません。しかし悪魔も神様のようになって
近づいてくるかもしれないのです。これは絶対的に正しいとされていても
本当にそうなのかと考えなければなりません。
つまり神様はどのように考えておられるのか
私たちは神様の目と心を持たなければならないのです。
神様の目は善なのか悪なのか見極める目を持っておられます。
しかし私たち神様ではありませんから、すべてを見極めることが難しいのです。
だからこそ私たちは、神様に近づくことができるように苦労しなければならないのです。
鍛錬しなければならないのです。神様も私たちに本当に信頼してほしいと思っています。
だからこそ数々の試練を与えてくださっているのです。
神様の試練は、全て私たちを神様に向けさせる業なのです。

ですから信仰の道に近道はありません。むしろ困難でやめてしまいたいという気持ちに
なることがあるかもしれないのです。神様は素晴らしいと感じて、洗礼を受けても、
何かに躓きを覚えて教会に来ることが出来なくなる方を多く見てきました。
極端に言えば神様の救いを感じることが出来れば誰でも信じることができるのです。
信じる権利はあるのです。しかし継続することは本当に大変です。
様々な葛藤が私たちを襲うでしょう。旧約聖書には、ヨブ記があります。

ヨブ記の1章の8~12節では、このようなことが書いてあります。
主はサタンに言われた。「お前は私の僕ヨブに気づいたか。
地上に彼ほどのものはいまい。無垢な正しい人で、神を怖れ、悪を避けて生きている」
サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。
あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。
彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地にあふれるほどです。
ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。
面と向かってあなたを呪うに違いありません。」主はサタンに言われた。
「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。
ただし彼には手を出すな」サタンは主のもとから出て行った。と書かれています。
その後、サタンはたびたび神様のもとを訪ねヨブに災難を与え続けますが、
ヨブは信仰を持ち続けました。それはその試練さえも
神様が与えてくださったものとヨブは神様の信頼を揺らぐことがなかったのです。
つまり堅固な信仰を貫き通したのです。ここに私たちがヨブに学ぶべきことがあります。
それはどんな場所でもどんな時でも神様の愛で満たされている事に気付き、
そして神様に感謝を献げる事が出来るのです。
わたしたちも同じように神様の言葉に耳を傾け、信仰を強めていきましょう。
そして感謝をもって、神の言葉を理解し、助け合って共に生きましょう。

お祈りいたします。全能の主なる神様感謝いたします。
今日はマタイによる福音書から学ぶことができました。
私たちはすぐに躓き、あなたの信仰から遠ざかってしまう愚かなものです。
どうぞ赦して下さい。どうぞ私たちが継続してあなたのことを考え、
あなたが与えてくださる愛を受取、忍耐して信仰を築き上げていくことが
出来ますようにお守りください。どんな試練からも揺るがない心を持つ者とさせてください。
このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン